いるところでございます」
「急ぐ旅でもないが……」
「そうなさいまし……江戸から来てみると、どうも淋しいこと、御覧の通り。ここは浜松も城下を西北に外《はず》れておりまして、わけてこの近所はお寺が多いものですから、夜などは墓場の中にいるようなもので、自分ながら、たとえ三日でも、よくこんなところに辛抱ができるようになったかと感心しているのでございます、もう女も、こうして淋しいところが住みよくなるようでは廃《すた》りでございますね」
吉田通れば二階から招く、しかも鹿《か》の子《こ》の振袖で……というのは小唄にあるが、これは鹿の子の振袖ではない、切髪の被布《ひふ》の、まだ残んの色あでやかな女に招かれたこと。
竜之助は、不思議な女だとも思い、旅の一興とも思う。
その夜はこの女と共にさまざまの物語をして後、十畳の一間へ床を展《の》べてもらって竜之助は寝る。
その夜、どうしたものか竜之助の頭がクラクラとする。ガバと褥《しとね》を蹴《け》って起き上る。
秋草を描いた襖《ふすま》が廻り舞台のように動き出す、襖の引手が口をあく、柱の釘隠《くぎかく》しが眼をむく。
蒲団《ふとん》の上に坐り直した竜之助は、声を立てようとして舌が縺《もつ》れる。
「まあ、どうかなさいましたの」
その声で竜之助は眼を見開いてホーッという息。
「大へんな魘《うな》され方ではありませんか」
再び眼を見開いたつもりであったが眼に力がありません。蒲団の上から差覗《さしのぞ》いていたのはお絹でありました。
「夢でもごらんになったのですか、お冷水《ひや》でもあがって、気をお鎮めなさいまし」
枕許《まくらもと》にあった水指《みずさし》から、湯呑に水をさしてお絹が竜之助の手に渡しました。顫《ふる》えた手で竜之助はその湯呑を受取ろうとして取落す。
「おやおや、水をこぼして」
お絹は困って、片手で何か拭《ふ》くものを探そうとしました。竜之助は、またその湯呑を取り直そうとしました。その二人の手が重なり合った時に、ハッとしてそれを引込ませました。
「気が落着いたら、ゆっくりお休みなさい、まだおかげんが悪ければ女中を起しましょう」
「いや、もう大丈夫、お世話になって相済まぬ」
お絹は竜之助が落着いたのを見て、自分の寝床へ帰ってしまいました。
竜之助の感はいよいよ冴《さ》えて眠れません。
眠れないでいると、一間
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