間の山のお玉か、待ち兼ねていた、さあこれへ」
黒羽二重の若侍は、気軽に座敷へ呼び上げようとすると、お玉は遠慮をして縁より上へは頓《とみ》に上ろうとも致しません。取巻きの連中もまた、さあこれへ上れということを言いません。
「早う、お玉の席をこしらえてやるがよい、その毛氈《もうせん》を敷いて、見台《けんだい》が要《い》るならば見台を」
お客の方から催促されても、お玉もそれきり上へあがろうともしなければ、取巻連中もまた客から言いつけられたように、席をこしらえてやろうとする気配《けはい》もなく、眼と眼を見合せておりますから、席がなんとなくテレて参ります。
「いいえ、こちらでよろしゅうございます、こちらの方がよろしゅうございます」
お玉が辞退しますと、それを機会《しお》に万の[#「万の」に傍点]が、
「お玉さんの勝手なのだから、あそこへ敷物を敷いておやり」
「承知致しました」
万の[#「万の」に傍点]より一段下の仲居は、もうちゃんと心得たもので、薄縁《うすべり》を二枚、押入から取り出して、クルクルと庭へ敷き並べ、その上へ、色のさめた毛氈を一枚、申しわけのように載せて、自分はサッサと座敷へ上って参ります。
「お玉さん、席が出来ました」
「有難うございます」
お玉は大事そうに三味線を抱えて、草履を克明《こくめい》に脱ぎ並べて、その席へ身を載せて、上の方へお辞儀をして、袋をはずして中から三味線を取り出しにかかる模様が慣れたものであります。
ここにおいて、先にお玉を座敷へ上げようとして席のテレかかったのを不思議に思った若侍たちは、
「ははあ、なるほど」
と感づきました。お客がお玉を聞くには、いつでもこうして聞くのである。楼でお玉を聞かせるには、いつでもこうして聞かせるのである。結局、お玉は縁より上へはあがれぬ身分か。
お玉はおもむろに袋から三味線を取り出しました。黒ずんだ色をした三尺の棹《さお》、胴も皮もまた相当に古色を帯びた三味線であります。
帯の間から撥《ばち》を取り出して音締《ねじめ》にかかる、ヒラヒラと撥を扱って音締をして調子を調べる手捌《てさば》きがまた慣れたものであります。
「撥捌《ばちさば》きがあれでまんざら[#「まんざら」に傍点]捨てたものではございません、ああして弾《ひ》き出してから、お客様が面《かお》をめあてにお鳥目《ちょうもく》を投げますると、あの撥で、その鳥目をはっしはっし[#「はっしはっし」に傍点]と受け止めながら、三味をくずさないのが、お杉お玉の売り物なのでございます」
万の[#「万の」に傍点]は仔細《しさい》らしく講釈をしましたが、客はそんな講釈を耳に入れず、お玉の方ばかり見ていました。
「あの形《かた》がいいね」
侍たちの間での囁《ささや》き。
「後ろにあるのは、太秦形《うずまさがた》の石燈籠、それを背中にして、あの通り三味を構えた形は、女乞食とは見えぬ、天人が抜け出したように見ゆる」
「ははあ、なるほど」
先刻の黒羽二重のは、何かまた一人で感に入って膝を丁《ちょう》と打ちます。
「趣向だな、座敷へ上げないで庭で聞かすところが趣向だわい」
独合点《ひとりがてん》をして納まります。通《つう》がってみたい人には往々、なんでもないことを何かであるように、我れと深入りをした解釈を下して納まる人があることであります。
先刻、お玉が座敷へ通されないことを、身分が違う、つまり人交《ひとまじわ》りのできないさげすみ[#「さげすみ」に傍点]の悲しさで、そうした侮りの待遇を受けても、自分もそれで是非ないものと思っており、周囲もまたそれを侮りともさげすみ[#「さげすみ」に傍点]とも思っていないという麻痺《まひ》した習慣のせいだとばかり思っていた黒羽二重は、ここに至って、そうでない、わざと地下《じげ》へうつして、蓆《むしろ》の上から聞くことが、この歌の歌い手と、この節の風情に最もよくうつり[#「うつり」に傍点]合うものであるから、それだから、わざと庭へおろして聞かせるように趣向を凝《こ》らしたものだと、黒羽二重はこういうように独合点をしてしまったほど、それほど、庭の中へ、燈籠を少し左へ避《よ》けて後ろへあしらった、お玉の形がよかったものであります。それから、おもむろに間の山節の歌、
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夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
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ここへ合の手が入る。
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花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
[#ここで字下げ終わり]
し――で――のたび、人を引張って死出の旅へ連れて行きそうな音色《ねいろ》。お玉の面《かお》はやや斜めにして、花は散りても春はさく……の時、声が甲《かん》にかかって、ひとたび冴《さ》えてい
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