もと》に吹き込んだもんだから、眼がさめて大きな欠伸《あくび》をしました。見ると、一人の老人らしいのが小さな男を背中に引っかけて、しきりに道庵先生にお詫びをする。
「お怪我《けが》はございませんでしたか、ついこの通り病人を抱えておりますものでございますから」
「別に怪我もねえが、ずいぶん驚いたよ」
「どうも相済みません」
老人はお詫びを言って、道庵先生をとりなして、あえぎあえぎ向うへ行こうとするのを、
「おい、待った待った」
道庵先生が呼び止めました。
「何か御用でございますか」
「今お前さんは、病人を抱えていると言いなすったな、病人をつれてどこへ行くんだい」「へい、あの、お医者様のところまで……」
「お医者様? お医者様ならここにいる、ここにいる」
「へえ……」
「お医者様ならここに一人いるよ、ごく安いのが一人いるよ」
まだまだ先生も、決して酔が醒《さ》めてはいないのでした。
小男を背中へ引っかけた老人は、暗い中から透《すか》して見ると、なるほどその人は茶筅頭《ちゃせんあたま》をして、お医者さんの恰好《かっこう》をしているから、
「あなた様はお医者様でございますか」
「こう見えても医者は医者だよ、医者は医者だが薬箱持たぬ」
医者には違いないらしいが酔っていることは確かでありました。酔っていてもなんでも医者でありさえすれば、急病人にとっては渡りに舟であります。行きかけた老人は、幸いここで見てもらおうか、どうしようかと暫らく思案の体《てい》であったが、すぐに立戻って、
「急病人でございますが、ちょっと見ていただきたいもので」
「おっと承知、さあ、病人をここへ出したり出したり」
通りかけた老人も初めはなんだか薄気味悪く思ったようでしたが、道庵先生が至って気軽でその上に酔っていると見たものですから、安心したものと見えて、背にかけた小男をそこへ卸《おろ》します。
「何だい、病気は」
「へえ……あの、癲癇《てんかん》でございます」
「癲癇? どれどれ、おや、まだ子供だな、いやそうでもない、大人かな、そうでもない、年寄みたようでもある、おかしな野郎だな」
道庵先生は、裸体《はだか》で気絶している小男の身体に眼を擦《す》りつけて一通り見て、
「冗談《じょうだん》じゃねえ、こんな癲癇があるものかい、これは打身《うちみ》だ」
「ええ……」
「高いところから落っこったんだい、それもちっとやそっと高いところから落ちたんじゃねえ。野郎、喧嘩をしたな、喧嘩をして簀捲《すま》きにされて高いところから突き落されたんだ、これここに縄のあとがある、縄でギューギュー引括《ひっくく》られて突き落されたんだ、人をばかにしていやがる」
「先生、それに違いありません、どうかお静かに願います」
「お静かに? よし、それでは静かにしてやる」
道庵先生は、わざと段違いの低い声をする。
「まだ脈はございましょうか、見込はございましょうか」
身体《からだ》を一通り撫でてみた道庵先生が、
「ある!」
「ありますか」
「生きる!」
「ほんとに生き返りますか」
「大丈夫!」
「助かりますか」
「助かる!」
「どうか助けてやっておくんなさいまし」
老人は意気込む。
「あたりまえの野郎なら、助かりっこのねえところだが、この野郎のは助かるように出来ている」
「へえ」
「息を吹き返させるのは雑作《ぞうさ》はねえが、その前に痛みどころを繕《つくろ》っておかねえと、息を吹き返してからかえって苦しがる」
「へえ」
「まず肩胛骨《かたぼね》が外《はず》れている、それで左の手がブラブラだ」
「へえ」
「頸椎《くびのほね》には異状がない」
「へえ」
「胸脇《むねわき》の骨が折れて肺へでも触《さわ》ろうものなら見込みはないが、そこにも異状がない」
「へえ」
「脳蓋《のうがい》といって頭の鉢を打《ぶ》ち割ればこれも望みはないが、幸いにその鉢の頭も無事だ」
頭の鉢というのを鉢の頭といってのけました。当人は気がつかないで澄ましていたが、傍《かたえ》の老人はこの場合にもおかしさを噛み殺さずにはいられませんでした。
「腰骨《こしぼね》にも横骨《よこぼね》にもこれまた異状はない、右の方の脛《すね》の骨が折れている」
「へえ」
「そのほか、身体中、処嫌《ところきら》わず打創《うちきず》かすり創だが、それらは大したことはない」
おかしなお医者さんだけれども、その診方《みかた》の親切なこと、そうして暗い中で、どこがどう、ここがこうということを掌《たなごころ》を指すように言ってみせるから、はじめは険呑《けんのん》がっていた老人が、そぞろに信頼の念を高めてしまいました。
「おい、お爺《とっ》さん、この人をこうして押えておいで」
道庵先生は小男を半分起して、そのブラリとした左の手を持って腋《わき》の下《した
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