歩退いて両足を前に合せて、そうしてじっと七兵衛の面《かお》を睨んでウォーと唸りつけていました。
その形相《ぎょうそう》を見て七兵衛は、この犬が並一通りの狂犬ではないことを知りました。
「ムクだ、ムクだ、ムクが出たぞ、どこから出て来たのだろう」
早くも土地の人が騒ぎ立てました。
先日、古市の町を騒がしたムク犬は、あれっきりどこへ行ったか行方知れずになってしまったのを、ここで偶然に姿を現して、また土地の人を騒がせました。
「どこにいたんだろう、あの犬はありゃ、尾上山《おべやま》の後ろに隠れていたんだぜ」
「痩せてるな、もとは熊のように肥《ふと》っていたが今は狼みたようだ」
「あの旅人は、ありゃ何だ、見慣れない人だが、気の毒だ、お役所へ沙汰をしようじゃないか、あん畜生はホントに狂犬《やまいぬ》になったんで通る人の見さかいもなく、ああして噛みつくんだ、うっかり傍へ寄ると危ねえ、早くお役所へ沙汰をしようじゃないか」
お役所、お役人という声を聞くと、
「エエ、めんどくさい」
七兵衛は急に焦《じ》れったがって、飛びかかって来た犬の眉間《みけん》のところを、拳《こぶし》を固めてガンと打ち据えて、自分は身を飜して一散にもと来た方へ走《は》せ出しました。七兵衛に打たれて後ろへ飛び退いたムクは、起き直るや、驀然《まっしぐら》に七兵衛の跡を逐《お》いかけます。
気の毒な米友は、この騒ぎのうちに隠ヶ岡から地獄谷へ突き落されてしまい、役人も非人《ひにん》も刑の執行を済まして、今ゾロゾロと山を下って帰って来るところであります。
十八
道庵先生は宿屋をうろつき出してしまいました。どうして、先生の気象《きしょう》でじっとしていられるものではありません。
それにお絹の宿屋で上等の酒を飲ませられたものだから、有頂天《うちょうてん》になってしまって、ひょろひょろと宿を出かけました。
ただ好い心持で歩くのですから、どこへどう行くかわかったものではありません。そのうちに人家を離れて、河沿いの堤《どて》みたようなところへ来ると、グンニャリとそこへ倒れてしまいました。
倒れたきりで仰向けに臥《ね》て酔眼《すいがん》をトロリと見開いて見ると、夜気|爽《さわや》かにして洗うが如きうちに、星斗《せいと》闌干《らんかん》として天に満つるの有様ですから、道庵先生、ズッと気象が大きくなってしまいました。
「ああ、よい心持だ、長安の大道、酒家《しゅか》に眠るという意気はこれだな、ナニ、ここは長安の酒家じゃねえ、酒家でも堤の上でもそんなことは構わねえ、エート、天子呼び来《きた》れども船に上《のぼ》らずか――俺のところへはまだ天子様からお迎えは来ねえが、大名旗本にはこれでお得意が大分あるんだよ、大名旗本呼び来れども診察に行かずなんて、そんな野暮《やぼ》なことは俺は言わねえ、大名旗本であろうとも、乞食《こじき》非人《ひにん》であろうとも、十八文よこす奴はみんな俺のお得意様だからどこへでも行ってやる、矢でも鉄砲でも持って来い」
先生、ひとりで大気焔《だいきえん》を上げている。
「どうして世の中がこう面白いんだか、世間でクヨクヨしている奴の気が知れねえ、おしなべて天下の事が十八文できまりがつくんだ、十八文より高くもなし、そうかと言って十八文より安くもねえ、安いと高いは買いようによる」
なんだかロジックが変になってきました。道庵先生はいよいよ好い心持でウトウトとしていると、三味線、胡弓《こきゅう》と太鼓に合せた伊勢音頭《いせおんど》が、河波を渡って道庵先生のウトウトしかけたところへ、それがとうとうたらりと流れ込むので、先生の好い心持を、またもう一層よい心持にして、ついにそのままグッスリと夢に入ってしまいました。
暫くすると、このせっかくの好い心持になっていた道庵先生が、
「ア、痛ッ」
いやというほど頭を蹴飛《けと》ばされてしまったものです。
十八文で有頂天《うちょうてん》になっていた先生も、頭を蹴飛ばされればやはり痛いから、痛ッと言ってみたが、頭を抑えるのも気が利かないと見えて、申しわけに痛いと言っただけでまた眠ってしまおうとすると、その上へどさり[#「どさり」に傍点]と折重なった者がありました。いくら道庵先生でも踏んだり蹴ったりでは黙っていられない。
「誰だ、誰だ」
周章《あわて》て跳《は》ね起きると、
「どうも相済みません、どうか御免なすって」
折重なって倒れかかった人は、低い声をして丁寧に道庵先生にお詫《わ》びを申します。
「気をつけて歩きねえ」
「どうか御免なすって」
暗い中を通りかかって、ふと道庵先生の身体に躓《つまず》いて倒れたものと見えました。おりからの夢を破られて、道庵先生の酔いも少し薄らいでいたところへ、夜の河風が襟元《えり
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