ない」
与兵衛は、ずんずんとお玉の手を引いて行く。
お玉の怖いというのは、ただ場所柄《ばしょがら》が怖いというだけではなくて、なんだかしんしん[#「しんしん」に傍点]といやな気持になってゆくのでありました。
「誰か後をついて来るような足音がします」
「そんなことがあるものか、さあここだ」
今、与兵衛の扉《と》をあける音で気がつくと、パッと燈火《ともしび》の光、かなりに広い一間。
その中に朦朧《もうろう》として人が一人います。
十三
微《かす》かな燈火《ともしび》の光に朦朧として人が一人います。恐怖のうちにお玉の眼に映じたものは、その人が水色無地《みずいろむじ》の着物を着て、坐って俯向《うつむ》きになっていたから、蓬々《ぼうぼう》と生えた月代《さかやき》だけが正面に見えて、面《かお》は更に見えませんでした。
俯向いている下に耳盥《みみだらい》が一つあって、俯向いているのはその人が今、巾《きれ》でもって面の一部分を洗っているのであることを知ったのは、やっと中へ入っていっそう気を鎮めた後のことであります。
「小島様、お使の衆を連れて参りました」
「それは御苦労」
一句、地獄から引いて来るような声。
その声だけで、なんとなくお玉は胸へ氷を当てられたように感ずるのです。
「…………」
お玉は何とも挨拶のしようがないからそこに腰をかけたままで、俯向いた人の方を盗むようにして見ると、面の一部分を洗っていると思うたのは眼を洗っているのでありました。真鍮《しんちゅう》の耳盥へ、黒い巾《きれ》を浸《ひた》しては、しきりに眼のところへ持って行って、そこを叩いているのでありました。
ああ、この人は眼が悪い。
お玉は直ぐに、そう感づいてしまいました。米友から手紙を読んでもらって、手紙を受取る人が病人であろうとの暗示は得ていましたけれど、眼が悪いのだとは気がつきませんでした。それを今ここへ来て見て、はじめてそう感づいたのでありました。
「それでは、ゆっくりお話しなさいまし。お玉坊、ここは誰も来る人もなし聞く人もないから心配をしずに、よくお話し申して、お金を失くしたお詫《わ》びを申し上げるがいい、わしは家へ帰って、いいかげんの時分に迎えに来るから」
「親方さん、一緒にいて下さい」
お玉は与兵衛に縋《すが》りつきたいと思いました。たださえしんしんとして
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