の音《おと》一つ立たないで、阿漕《あこぎ》ヶ浦《うら》で鳴く千鳥が遠音《とおね》に聞こえるくらいのものでありました。
「困ったことだわい」
印伝革《いんでんがわ》のかます[#「かます」に傍点]から煙草を詰め替える与兵衛は船大工の親方、年はとっているが眼は光る。
「今晩は」
裏口でおとなう声。
「へーい」
内で与兵衛が返事。
「あの、大湊の与兵衛さんとおっしゃるのはこちら様で……」
「与兵衛はうちだが、お前さんは」
「古市から参りましたが」
「古市から?」
与兵衛は立たないで耳を傾けて、
「古市から? 古市のどちら様からおいでなすった」
「あの、備前屋から」
「備前屋さんから?」
与兵衛はこの時ようやく立って、
「どうも女衆の声のようだが」
戸をあけると、手拭で面を包んだ女、逃げ込むようにして家の中へ入って、
「こちら様に小島さんとおっしゃるお方がおいででございましょうか」
「小島……してお前さんは何しにおいでなすった」
「その小島さんというお方がいらっしゃるならば、その方へお手紙を内緒《ないしょ》で頼まれて参りました」
「ああ、そうでござんしたか」
「これがそのお手紙でございますが」
「これが……」
与兵衛はお玉の手から手紙を受取って、
「それは御苦労様でございます、どうか少しお待ちなすって。その火の傍で少しの間、待っていておくんなさいまし」
与兵衛はその手紙を持って、家の内と外とを気遣《きづか》うように見廻して、戸を締め切ってしまいました。
被《かぶ》っていた手拭を取って火の傍へ寄った女は、間《あい》の山《やま》のお玉であります。
お玉は仕事場の中へ入って炉の傍へ寄って、いま出て行った老爺《おやじ》の帰るのを一人で待たされていました。焚火の光で、丸太を組み渡した高い天井が白い蛇の這《は》っているように見えました。光の届かない家の四隅は真暗で、外で千鳥の啼《な》く声が淋しい。
「いやどうも、お待遠さま」
ようやくに裏口の戸をあけて与兵衛の帰って来たのを見て、お玉はホッと息をつきました。
「おや、お前さんは間の山のお玉さんじゃねえか」
与兵衛は今になって、それがお玉であることに気がついたのです。
「ええ、そうでございます」
お玉は恥かしそう。
「こりゃ、お見外《みそ》れ申したというものだ」
与兵衛は、しげしげとお玉を見て、
「お前はお尋ね者
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