でどうかできるだけの養生をなすって、故郷へお帰り下さるように」
「そうすると、向うの人も病気で悩んでいるのですね」
「そうだ、これによって見ると、たしかに病気だね、何病とも別に書いてねえが、女が勤め奉公に出て、その血の出るような金を貢《みつ》いで男の病気を癒《なお》そうというんだね」
「知らなかった知らなかった、それほどのお金だったら、あの晩に届けて上げればよかったものを。二十両のお金、家へ置きっぱなしにして来たから、もう取返すことはできない」
 お玉は躍起《やっき》となって口惜《くや》しがります。
「それでだね、お前、終《しめ》えの方へもってきてよ、それ、お前がおはこ[#「おはこ」に傍点]の歌を書いてあらあ、花は散れども春は咲くよ、鳥は古巣へ帰れども、行きて帰らぬ死出の旅、今あの歌が聞えます、あの歌は、はじめに行基菩薩《ぎょうきぼさつ》というお方がおつくりなすった歌だから、あれを冥土《めいど》の土産《みやげ》に聞いて行けば心残りはないから、わたしの命は今晩限り、明日は、もうこの世の人でないと書いてあるよ」
「それではやっぱり、わたしの歌を聞いて死ぬ気になったのだよ、わたしがお手伝いをして殺したようなものだ、申しわけがありません、どうも済みません」
「そんなことはねえ、歌をうたう方と死にたくなる方とは別々だからあやまらなくてもいい。それで終いの方へ行って、わたしは快くあの世へ行きます。あの世へ行けば知った人はいくらでもいますけれど、この世に残るあなた様にはお頼りなさる人がひとりもないと思うと、冥路《よみじ》のさわりのような心地も致しますけれど、何事もこれまでの定まる縁……こんなことも書いてある、筆もなかなか見事だし、文言《もんごん》もうめえものだ」
「そう聞いては、わたしはじっとしていられない、わたしの身はどうなってもかまわない、友さん、わたしは大湊まで行くわ、行ってその小島さんとやらにお詫びをするわ、こうしちゃいられません」
「そうだなあ」

         十二

 船大工《ふなだいく》の与兵衛は仕事場の中で煙草を喫《の》んでいました。炉《ろ》の焚火《たきび》だけが明りで、広い仕事場がガランとして真暗《まっくら》でありました。
「何とかしなくっちゃあ」
 ひとりで呟《つぶや》いている。
 伊勢の海は昼でさえも静かなものであります。夜になったのでは雌波《めなみ》
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