獅子ヶ鼻という山だ、あの山の蔭へ行ってみたら、いいところがあるかも知れねえ」
「行きましょう、人が来るといけないから早く」
 二人はなお南へ行こうとした道を曲げて、西の方へ道のない山ふところを分けて獅子ヶ鼻の山の下へ出ました。
 四方を見れば寂然《じゃくねん》として深谷《しんこく》の中にある思い、風もないから木も動かぬ、日の光が、照すのでなく覗《のぞ》くようにとろり[#「とろり」に傍点]としている。
「玉ちゃん、さあ着物を脱ぎねえ」
 大きな樅《もみ》の木の下、岩角が自然と洞《ほら》になっているところ、米友はそこを見出して自分が先に荷物を卸《おろ》して、
「ここなら誂《あつら》え向き、その木と木の間へいま梁《はり》をこしらえるから、そこへ着物をかけて乾かしておけば、着物の乾く間、それが屋根にならあ」
 立枯《たちがれ》の木をへし折って、それを蔓《つる》で結《ゆわ》えて干場《ほしば》を拵《こしら》える。
「さあ、干場が出来たから着物を脱ぎねえ」
 お玉は解きかけながら、
「米友さん」
「何だい」
「襦袢《じゅばん》まで湿《しめ》ってるんだよ」
「なら襦袢まで脱いだらよかろう」
「襦袢まで脱げば裸《はだか》になってしまうじゃないか」
「裸だって仕方が無え」
「裸になるのはいやだねえ」
「いやだって、その濡れた着物を着ちゃあいられめえ」
「それだってお前」
「何だい」
「恥かしいねえ」
 お玉は、はにかん[#「はにかん」に傍点]で面《かお》を赤くする。米友は猿のような眼を円くして、
「恥かしい?」
 そう言って四方《あたり》を見廻したが森閑《しんかん》たる谷の中。
「恥かしいったって、誰もいやしねえじゃねえか」
「誰もいないったって、恥かしいわ。それにお前も見ているじゃないか」
「俺《おい》らが見ていたって……」
 米友は四方《あたり》を見廻した面をお玉の面へ持って行くと、
「うん、なるほど、お前が裸になるのがいやなら、俺らが先に裸にならあ」
「友さん、お前が裸になってどうするの」
「俺らの着物をお前に着せてやろう」
「それではお前が裸になるじゃないか」
「そりゃそうさ、どっちかひとり裸にならなけりゃ納まりがつくめえ」
「それでもお前を裸にしちゃあ気の毒だわ」
「お前は裸になるのが恥かしいというじゃねえか、俺らは裸なんぞはちっとも恥かしいとは思わねえ、裸の方がいい心持なく
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