々《こうこう》たる淡路流の短い穂先。それを扱《しご》いて一文字に、群衆の中へ飛び込んでしまった、その早いこと。生薬屋の屋根の上から覘《ねら》いを定めようとした猟師の藤吉は、火縄を吹いて呆気《あっけ》に取られ、
「迅《はや》い奴だ、鉄砲玉より迅い」
人混みの中へ鉄砲は打ち込めないから手持無沙汰《てもちぶさた》。
米友が飛ぶと、ムクも飛ぶ。一団になって遠捲きにしていた群衆の頭の上から、人と犬とが一度に落ちて来たのだから、ワァーッと言って崩れ立つ。
「ざまあ見やがれ」
弥次馬は崩れたが、逃げられないのは警護に出向いていた奉行《ぶぎょう》の捕手《とりて》。
「神妙に致せ、手向い致すと罪が重いぞ」
「好きで手向《てむけ》えをするんじゃねえ、汝《てめえ》たちが手向えをするように仕かけるから手向えするんだ、素直《すなお》に俺《おい》らとムクを通してくれ、道をあけて通してくれりゃ文句はねえんだ、やい通しやがれ」
鉄砲の覘いを乱すために米友は、わざと人の中を割って働く。槍をグッと手元につめて七寸の位にして遣《つか》ってみる、隻手突《かたてづ》きに投げ出して八重に遣う。感心なことに、皮一重まで持って行って肉へは触《さわ》らせない、それで寄手《よせて》の連中がひっくり返る。後ろへ廻ってはムクがいる。八面|応酬《おうしゅう》して人と犬と一体、鉄砲を避けんために潜《もぐ》り、血路を開かんがために飛ぶ。
どちらでも風向きのよい方に傾く屋根の上で見物の弥次馬は、米友とムクが生命《いのち》がけの曲芸を見てやんやと讃《ほ》め出してしまいました。さいぜんは面白半分に、米友とムクとに向って石や瓦を投げつけていた連中が、いつしか米友とムクとの贔屓《ひいき》になって声援をする。
田丸の町の猟師の藤吉は、幾度か鉄砲を取り直してムクだけでも仕留めてやろうと覘《ねら》いをつけては、つけ損《そこな》う。騒ぎはますます大きくなって、古市の町はひっくり返りそうで、さしもの参宮道が一時は全く途絶《とだ》えてしまう。豆腐六のうどん[#「うどん」に傍点]を食いさした宇津木兵馬は、たかが一疋の狂犬に、さりとは仰々しい騒ぎよう哉《かな》と、いざ笠を被《かぶ》って店を出ようとするその出鼻《でばな》でこの騒ぎであるから、足を留めないわけにはゆきませんでした。人の肩越しからその気もなく覗いて見ると、さてもこの有様。
「はて
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