見ていましたが、
「そいつは困ったことが出来た」
「何でございます」
「いえナニ、白状しないものをお仕置にかけて、もし本当の盗人が出た時には困りましょうなあ」
「それは困りましょうなあ」
「なんですか、その隠ヶ岡のお仕置場というのは誰でも見せてくれますか」
「山の下までは行けますがね、お仕置場のところへは入れませんや」
「へえ」
「しかし、山の下を廻って行けば行けないことはござんせんがね、そこは昼もお化けの出る古池で、人間の骨がゾクゾクしていますから、とても行かれませんや」
「左様でございますかね」
「それからその隠ヶ岡の下では、拝田村の芸人がたくさん集まって、あの男の命乞いをするといって騒いでいるそうでございますが、もうこうなってはお取上げになりますまいよ」
「左様でございますかね」
「あいつも根は正直者なんですが、ひょいとした出来心であんなことをしてしまったのでしょう、かわいそうといえばかわいそうですよ」
「それは気の毒なことをしました、どうも大きに有難う」
 七兵衛はこれだけの話を聞いて、なんと思ったか、来かかった道を逆に帰って、米友のあとを追うて、見え隠れにどこまでもついて行き、
「こいつには困った、まだまだ俺もここいらで年貢《ねんぐ》を納めたくはねえのだが……」
 七兵衛がこうして隠ヶ岡の下まで来ると、不意に一頭の猛犬が現われて烈しく吠えかかりました。
「叱《し》ッ、叱ッ」
 石を拾って打とうとするとその手許《てもと》へ犬が飛んで来ます。
 ムク犬は、どこをどうして来たか、ゲッソリと痩《や》せていました。飛びかかる足許さえ危ないくらいに痩せていましたけれども、猛犬はやはり猛犬でありました。
「叱ッ、叱ッ」
 七兵衛は先を急ぐことがあるのであります。落ちていた竹の棒を拾って一打ちと振りかぶると、犬はその手へスーッと飛んで来ました。あぶない、その手を渡って来て肩先へ噛みついた――七兵衛が少しく身をかわしたから、ムクの歯は七兵衛の肉へは透《とお》らないで、七兵衛の合羽《かっぱ》の上を食い破ってしまいました。
「こん畜生、狂犬《やまいぬ》だな」
 七兵衛は合羽へ食いついた犬の首を抱えるようにして、力任せに後ろへ取って捨てる、痩せて弱っていた猛犬は七兵衛に後ろへ取って捨てられて※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と倒れたが、クルリと起き上って、二三
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