十四
その前の晩、大湊《おおみなと》へ碇《いかり》を卸《おろ》した十六|反《たん》の船がありました。船の上から大湊の陸の方をながめて物思わしげに立っているのはお松でありました。
宮川と汐合川《しおあいがわ》の流れ出したところが長く洲《す》になっていました。大湊の町の町並は点《とも》しつらねた人家の灯《ひ》で丁字形《ていじがた》になっていました。それをとびとびに一里半ゆくと、宇治山田の町が灯に明るいのであります。
小林の船倉《ふなぐら》から東の方へ突き出した洲崎《すさき》には材木場の大きな建物が見えています。町は明るいのに船倉と材木場の方は真暗です。
大湊は船を造《こしら》えるところであり、またそれを修理するところであるから、ここに泊っている船は、この船とばかりは限らない。
入江の方から帆柱が林のように立っている間をおりおり小舟が往来するのを、お松はそれにいちいち眼をつけていました。
お松はこうして兵馬の帰りを待っているのでした。兵馬は大神宮へ参拝するといって船を下りたまま、まだ帰らないのです。
「おやおや、宇治山田の方から、提灯《ちょうちん》のようなものがたくさん飛んで来る」
陸《おか》を見ていたお松は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、
「お祭礼《まつり》でもないようだし、ああ、だんだん大湊の町へ近くなる」
と見ると小林の船倉あたりから、高張提灯《たかはりぢょうちん》のようなものが二つ三つ見え出してきたから、
「おや、あそこは船倉じゃないか、お奉行様のお邸のあるところだと船頭衆が言っていた、あそこから高張が出たのは、いよいよ只事《ただごと》でないにきまってる」
お松が気を揉《も》み出した時に、
「おいおい、みんな来て見ろ、町で何か騒動が始まったぜ」
船中の者共は我れ先にと船縁《ふなべり》へ出て、そうして町の方を見物しながら、
「何だ何だ、火事か盗賊か」
「心配だから、わたし陸《おか》へ上って様子を見て来ます」
お松はたまり兼ねて、船頭の助蔵に向ってこう言いますと船頭が、
「お前さん一人はやれない、行くなら誰かつけてやるが、まあもう少し待ってみなさるがよかろう」
「どうしても行ってみます、あんなに騒がしいのは只事《ただごと》ではないから」
「そんなら誰か伝馬《てんま》を押せやい、勝、お松さんを陸《おか》まで連れて
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