ある。
 兵馬は手拭を持って長い廊下をしずしずと歩んで行く。お客が少ないから明間《あきま》が多く、蒲団《ふとん》や夜具を抛《ほう》り込んだままのもある――兵馬は足音しずかに行くと、そのうちの一間からふいに飛び出して廊下を横に切って、忍び足にかけ行くものがある。面《かお》は手拭でかくして手には何やら包みを持っています。
 怪しい奴! 兵馬は直ぐに泥棒だと感づきました。見のがせることではない――今しも、開け放してあった雨戸の口から外へ出ようとする盗賊の襟首《えりくび》を持って引き下ろしました。
 兵馬であったからよい、ほかの者ならば、けたたましく、泥棒! 泥棒! と鳴りを立てるところです。兵馬に無言で引き下ろされて、泥棒の力のまた脆《もろ》いこと、一たまりもなく引き倒されて、
「どうぞ、御勘弁下さいまし、お見のがし下さいまし」
 賊は手を合せて拝むと、兵馬はかえってそれに驚かされました。
「おお、そなたは……」
「何もおっしゃらず、どうぞ、お見のがし下さいませ」
「合点《がてん》のゆかぬこと」
 この泥棒はお豊でした。兵馬には、なんだか実にわからなくなってしまいました。
「これには深い仔細
前へ 次へ
全85ページ中77ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング