ある。
兵馬は手拭を持って長い廊下をしずしずと歩んで行く。お客が少ないから明間《あきま》が多く、蒲団《ふとん》や夜具を抛《ほう》り込んだままのもある――兵馬は足音しずかに行くと、そのうちの一間からふいに飛び出して廊下を横に切って、忍び足にかけ行くものがある。面《かお》は手拭でかくして手には何やら包みを持っています。
怪しい奴! 兵馬は直ぐに泥棒だと感づきました。見のがせることではない――今しも、開け放してあった雨戸の口から外へ出ようとする盗賊の襟首《えりくび》を持って引き下ろしました。
兵馬であったからよい、ほかの者ならば、けたたましく、泥棒! 泥棒! と鳴りを立てるところです。兵馬に無言で引き下ろされて、泥棒の力のまた脆《もろ》いこと、一たまりもなく引き倒されて、
「どうぞ、御勘弁下さいまし、お見のがし下さいまし」
賊は手を合せて拝むと、兵馬はかえってそれに驚かされました。
「おお、そなたは……」
「何もおっしゃらず、どうぞ、お見のがし下さいませ」
「合点《がてん》のゆかぬこと」
この泥棒はお豊でした。兵馬には、なんだか実にわからなくなってしまいました。
「これには深い仔細《しさい》のあることでございます、どうぞ、お情けに何もお聞きなさらず、このままお見のがしを願いまする、あとでわかることでございますから」
面をかくした手拭をとりもせずにお豊は、一生懸命で兵馬に見のがしてくれと歎願するのです。
「そなたの夫、金蔵殿とやらは、そなたを探しておられますぞ」
「はい、金蔵に知れますと、わたしは殺されてしまいまする、どうぞ、お慈悲に、このままお見のがしを願いまする」
見逃すべきであるか、捉《とら》えて夫に引渡すべきであるか、兵馬も、しばしその扱いに迷うたのでありましたが、あの無茶な乱暴男、この有様を告げたら、なるほど、この女の言う通り女は殺されてしまうだろう、まあ、この場は見のがしておいた方がよかろうと兵馬も分別《ふんべつ》しました。
「どうぞ、お見のがし下さいませ、決して、あなた様のお身に御迷惑のかかるようなことは致しませぬ、一生の御恩でございます」
お豊は包みを拾い上げて、戸の外の闇へ飛び下ります。
兵馬はそれを追いかける気になりませんでした。
十一
兵馬はその翌日、宿をかえた――兵馬には、こんなばかばかしいことにかかわっていられない。金蔵が恨もうと、お豊が帰るまいと、別に心に残ることはなかったが、兵馬が去ってから後の室町屋には大変が出来《しゅったい》しました。
その晩のこと、金蔵が荒《あば》れ出した――その荒れ方も尋常ではない、一室に押込めて、家中総出で警戒していたにもかかわらず、金蔵はついに荒れ出して脇差を抜いた。それでもって、支える奴を縦横無尽に斬り立てた。
父親の金六も手を負わされた、母のお民も斬られた。
それから、台所に飛んで出て、火を焚いていたおさんどんを蹴飛《けと》ばして、その火を取って投げ散らした――その火は障子についてめらめら[#「めらめら」に傍点]と燃え上る。
血に染《にじ》んだ脇差を振り廻して表へ飛んで出た。
忽《たちま》ちの間に湯元村をひっくり返すほどの騒ぎとなった。
金蔵が血刀を引っかぶって通りへ飛び出して、
「お豊、兵馬」
と名を呼んで二人を求めんと狂い廻る。兵馬はこの時、こんなこととは知らずに神木屋というのへ宿を替えて、その朝は、昨夜のあの護摩壇《ごまだん》へ行こうとして大師堂の傍まで来たのであったが、不意に火事よという声で振返って見ると、すぐ眼の下の、室町屋のあたりから黒煙が渦《うず》をまく。
兵馬も宿には大事のものが残してないではない。心にかかるからそのまま引返して湯元へ来ました。
火事は室町屋から出たので、今しも台所を吹き貫《ぬ》いて、二階の廊下を焼き抜いて、真紅《まっか》の炎《ほのお》がメラメラとのぼる。
兵馬は神木屋へかけ戻って、店の若い者と一緒に始末をしている。
「室町屋の若主人が、急に気がふれ出した……」
兵馬は合点した。あの金蔵という奴が荒《あば》れ出したな――こうと知ったら、もう少し手厳《てきび》しく戒《いまし》めておけばよかったと思いました。
けれども、金蔵は三輪でやらなかったことをここでやるのですから、どのみち金蔵としては、やるべきことをやってしまいました。お豊もまたあの時、金蔵を捨てるはずのを今ここで実行したものですから、お豊がなくなって金蔵の執念が勃発《ぼっぱつ》するのはあたりまえのことでありました。
兵馬は、それを知らないで、ただ無茶な乱暴男もあればあるものと思っています。
この火事は人家の方へ出なかったけれども、それより悪いことは、山へうつってしまったことです。人家の火事は消しようがあるが、山の火事は
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