、猛《たけ》るような大きな声でこう言い出したので、番頭は、
「何でございます、何をお聞き申すのでございます」
「あの若侍が知っている、お豊の行きどころを知っている」
「あの方がでございますか。あの方がお内儀さんの……」
「知っている、聞いて来い」
 金蔵は、怒鳴《どな》りつけて番頭を立たせました。
 番頭は、何のことだか一向わからないけれど、まあ言われる通りに聞いてみようと、怖る怖る兵馬の部屋をさして出かけて行きます。
「そうだ、それに違いない――」
 金蔵は、ひとりで歯噛みをしています。
「前髪立ちの若衆《わかしゅう》と、三十前の年増《としま》だ……年上の女に可愛がられていい気でいる奴もあれば、ずんと年下の男を滅法界《めっぽうかい》に好く女もあらあ――油断《ゆだん》がなるものか。第一、こちらからお豊のやつが上って行く、上から若侍が下りて来る、ほかに誰がいた、証拠を押えたようなもんだ――お豊を隠しやがったな、あの若いのが」
 金蔵の眼は、みるみる火のように燃えてゆきます。
 金蔵は英雄でも偉人でもないけれど執念深い――執念のためには命を投げ出して悔いない男である。思い込むと蛇のように執拗《しつこ》くなる男であります。飛んでもない、人もあろうに宇津木兵馬は、この男の怨《うら》みの的《まと》となってしまいました。お豊と兵馬とは金蔵の留守の間に不義をした――と思い込んでしまった金蔵の怨みは、もう、誰がなんと言っても解けません。
「覚えてやがれ!」
 この二月《ふたつき》ほど真人間《まにんげん》に返って、驚くほど堅気《かたぎ》になり、真黒くなって家業に精を出し、和歌山へ行ったのも宿屋の実地調べで、これからますます家業へ身を入れようとした金蔵の心が、またもがらり[#「がらり」に傍点]と変って、もとの無頼漢になるのです。

 兵馬が旅日記を書き終って、いま寝ようとするところへ、金蔵がやって来ました。
「御免下さい」
 言葉が荒っぽく、眼の色が血走って立居《たちい》が穏《おだ》やかでない。
「これは、どなたじゃ」
「へえ、金蔵と申しまして、ここの亭主でございます。お初《はつ》に――いや、さっき竜神の石段でお目にかかったのは、たしか、あなた様でございましたな」
「左様、貴殿が御亭主でござったか、留守中お世話になりました」
「時に、あなた様――」
 金蔵は眼に角《かど》を立てて、口のあたりが引きつり、呂律《ろれつ》が怪しい、よほど飲んで来たものです。
「お前様のおっしゃるには、わしの女房のお豊は、うちへ帰っているはずでございますが、まだ帰っておりませんぜ」
「なに、御内儀《ごないぎ》が……」
 兵馬は金蔵の言いがかりぶりが無礼に見えるので、少し向き直り、
「まだお帰りがない? 拙者は、あの社内《やしろうち》でちょと会うたばかりだからその後は知らぬ」
「いったい、お豊のあま[#「あま」に傍点]は、何のために、この夜中《やちゅう》に、あの社内へ出かけたものでござんしょうねえ、お武家様」
「何のためとは」
 兵馬が、そんなことを知るはずはないのを、金蔵はからみつくように、
「お前様は、それを御存じであろうと、わしはこう睨《にら》んだのだ」
「なんと、拙者がそれを知っている?」
「そうでございます、あの、人も行かない淋《さび》しいところを、この夜中に、つまり人眼を忍んで、行きつ戻りつなさったのは、うちのお豊と、それからお前様のほかにはない」
「うむ」
「ですから、わしは、お前様とお豊とが、しめし合せて、なにか人に聞かれて都合の悪い話を、あそこで、おやりなすったものとこう思うんだ」
「滅多《めった》なことを言われる」
 兵馬は屹《きっ》となった。見れば酔ってもいるようだが、それにしても聞き捨てならぬ一言である。
「ナニ、滅多なことが、どうしたんだ。さあ女房を出せ、おれの女房のお豊を出せ。前髪のくせに、ふざけたことをしやがる。どこへ隠した、早く、おれの女房のお豊を出せ!」
 金蔵は、持って来た脇差《わきざし》を抜いて振りかぶり、大胆にも兵馬をめがけて切ってかかりましたけれど、これは問題にもなんにもなりません、すぐに刃《やいば》は打ち落されて、兵馬の小腕に膝の下へ引据《ひきす》えられ、
「無礼にもほどがある――店の衆――誰かおらぬか」
 兵馬は金蔵を組み敷いておいて、声高く店の者を呼びました。

 金蔵は家族や店の者が総出でつかまえて、欺《だま》し賺《すか》しつつ引張って行きました。
 父の金六は兵馬の前へ頭を下げて詫《わ》びをする。兵馬は別に深く咎《とが》めるつもりはないが、言いがかりにしても潔《いさぎよ》くない言いがかりだと思いました。
 明日は宿を換えようと心に決めながら浴室へ行く、寝る前に一度、湯に入ることがきまりになっている。そこから浴室までは大分
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