あたりが引きつり、呂律《ろれつ》が怪しい、よほど飲んで来たものです。
「お前様のおっしゃるには、わしの女房のお豊は、うちへ帰っているはずでございますが、まだ帰っておりませんぜ」
「なに、御内儀《ごないぎ》が……」
兵馬は金蔵の言いがかりぶりが無礼に見えるので、少し向き直り、
「まだお帰りがない? 拙者は、あの社内《やしろうち》でちょと会うたばかりだからその後は知らぬ」
「いったい、お豊のあま[#「あま」に傍点]は、何のために、この夜中《やちゅう》に、あの社内へ出かけたものでござんしょうねえ、お武家様」
「何のためとは」
兵馬が、そんなことを知るはずはないのを、金蔵はからみつくように、
「お前様は、それを御存じであろうと、わしはこう睨《にら》んだのだ」
「なんと、拙者がそれを知っている?」
「そうでございます、あの、人も行かない淋《さび》しいところを、この夜中に、つまり人眼を忍んで、行きつ戻りつなさったのは、うちのお豊と、それからお前様のほかにはない」
「うむ」
「ですから、わしは、お前様とお豊とが、しめし合せて、なにか人に聞かれて都合の悪い話を、あそこで、おやりなすったものとこう思うんだ」
「滅多《めった》なことを言われる」
兵馬は屹《きっ》となった。見れば酔ってもいるようだが、それにしても聞き捨てならぬ一言である。
「ナニ、滅多なことが、どうしたんだ。さあ女房を出せ、おれの女房のお豊を出せ。前髪のくせに、ふざけたことをしやがる。どこへ隠した、早く、おれの女房のお豊を出せ!」
金蔵は、持って来た脇差《わきざし》を抜いて振りかぶり、大胆にも兵馬をめがけて切ってかかりましたけれど、これは問題にもなんにもなりません、すぐに刃《やいば》は打ち落されて、兵馬の小腕に膝の下へ引据《ひきす》えられ、
「無礼にもほどがある――店の衆――誰かおらぬか」
兵馬は金蔵を組み敷いておいて、声高く店の者を呼びました。
金蔵は家族や店の者が総出でつかまえて、欺《だま》し賺《すか》しつつ引張って行きました。
父の金六は兵馬の前へ頭を下げて詫《わ》びをする。兵馬は別に深く咎《とが》めるつもりはないが、言いがかりにしても潔《いさぎよ》くない言いがかりだと思いました。
明日は宿を換えようと心に決めながら浴室へ行く、寝る前に一度、湯に入ることがきまりになっている。そこから浴室までは大分
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