、その後でなければあれへ参れぬことになっておりまする」
「水垢離をとった上で?」
 兵馬は小首を傾けて、
「それほどまでにして信心にも及ぶまい」
 彼は、その護摩堂へ行くことを思い止ったものらしい。
 お豊は挨拶をして、かの階段を下りて行きました。
 兵馬は、またそぞろ歩きをはじめたが、ふと思うよう、あの女は、たった一人で何しに、この淋しいところへ来たものであろう――さいぜんの自分を呼びかけた旅の男は、お豊、お豊と、女の名を呼んでいた、或る種の女にはよくある迷信じみた信心から、ここへ夜詣《よまい》りに来たものであろう。
 兵馬はこんなことを考えて、社殿の前へ来ました。そこで社殿の背後を見上げるとかの護摩壇の森。そこへは、行ってはならない、行かないがよいと戒《いまし》められてみると、どうも、それだけに不思議があるようだ。そうだ、自分が、この附近で、まだ足を踏み入れぬのはあの護摩壇の森――よしよし、なにほどのこともあるまい、上ってみよう。
 兵馬は一文字に森をめがけて進んで行くのでした。無論、かの御禊の滝の水垢離などには頓着せずに――

         九

 机竜之助が隠れているところこそ、その護摩壇のうしろでありました。
 それを隠しておくのは、かの修験者であります。
「御浪人、眼はどうじゃ、眼は」
 窓を隔てた次の間から、修験者は、この世の人でないような声で尋ねてみると、
「うむ、よくない、だんだん悪くなるようじゃ」
 机竜之助は、肱《ひじ》を枕に、破れた畳の上に身を横たえて、傍《かたわら》には両刀を置いて、こう答えたが、燭台の光で見ると、例の蒼白い面《かお》がいっそう蒼白く、両眼は閉じて――左の眼のふちにはうっすら[#「うっすら」に傍点]と痣《あざ》がある。
「それはいかん、滝の水で洗うて来たか」
 修験者は言う。竜之助は答えて、
「さいぜん、滝まで下って行った、どうやら人がいるようだから、やめにして帰って来た」
「ナニ、人がいた? 滝に人がいたか」
「うむ、一人の女が滝を浴びていた」
「女が? 滝を?」
 修験者は言葉をきって、何やら考えているようです。
「修験者殿、雨が降って来たようじゃな」
「左様、雨じゃ」
「なんとなく、木の葉も騒ぐようだ、風も出て来たと見ゆるわ」
「おお、風も出て来た」
 しばらく静かであって、室外はポツリポツリと雨の音がする、サーッ
前へ 次へ
全43ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング