であります。それを知っているのは修験者一人、知って知らないのはお豊一人――修験者は天地が八つ裂きになろうとも自分からこうとは言い出さぬ。いまや竜神村の安否はお豊の口一つにかかっているはずなのに、そのお豊は怖ろしい言い伝えの前には無智であるだけに、それだけに大胆でありました。「清姫の帯」は念頭になく、ただ人相書が気になって眠れないのでありました。
五
その次の日の宵の口、室町屋の店先には、竜神街道や蟻腰越《ありこしご》えをする馬子《まご》駕丁《かごかき》と、それに村の人などが、二三人集まって声高く話をしています。
「今年も、よくよく御難《ごなん》な年だ、十津川騒動さえ始まらなければ、こんなことはないのだが、湯の客は少ないし、薬種《やくしゅ》を買いに来る商人も見えず、その上に、今日も明日も厳《きび》しい落人詮議《おちうどせんぎ》で追い廻される、たまったことじゃないわ」
全くその通りで、十津川騒動の余波を受けた竜神温泉の不景気たらない。
温泉のほかに、この土地では薬種が採れる、瓜《うり》の根から粉がとれる、名物の檜笠《ひのきがさ》と白箸《しろはし》とは土地の有力なる物産である、それから山で茸類《たけるい》がとれる――温泉とこれらの産物によって土地の人は活計を立てているのでありました。戦乱のために湯の客が少なくなっても、直ちに生活にさしひびくというようなことはないが、弱らされるのは天誅組の余類が、この竜神村のどこかに隠れているという嫌疑《けんぎ》で、昨夜から引続いて、探索のあることであります。
世話役は引っぱり出され、人足は駆り出され、宿屋宿屋には厳しいお触れがある――馬子や駕丁もうっかり客を載せられぬ。
「ねえ、お内儀さん、こちらにおいでなさる、藤堂様の御家中だとかおっしゃるお若いお方は、まだお帰りになりますまいね」
これは檜笠作《ひのきがさづく》りの六助で、店にいたお豊を見て問いかけたのであります。
「ええ、朝早くおでかけになったきり……」
「殿貝の旦那から聞くと、こちらへお泊りになった若いお侍は、あれは敵《かたき》をさがしにおいでなすったんだとさ」
「敵を?」
「そうですよ、親の仇《かたき》が天誅組から逃げて、たしかにこの竜神村へ入り込んだといって探しにおいでなすったんだとさ」
「はあ、親の敵、なるほど。まだお若いに豪《えら》いものじゃ
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