ります。さてはこの人も自分と同じく、つれなき世上の波に揉《も》まれ行く身であるよ。
「それはまあ、おかわいそうに。そのお子さんはさぞ会いたくていらっしゃるでしょうに」
「左様、年のゆかない子供の身の上というものは、どこにいても思いやられるでな」
「左様でございますとも。せめてお母さんでもおありなさることならば、いくらか御心配も薄うございましょうが、お一人だけでは……」
「ナニ、親はなくとも子は育つというから、まあ深くは心配せぬけれども、道を歩いても、その年ぐらいの子供を見かけると、ついどうも思い出される、ハハ」
 竜之助は淋しく笑う。
「ほんとに御心配でございましょう。そのお子さんはおいくつ……男のお子さんでございますか」
「数え年で四つ、左様、男の子じゃ」
「お母さんもさだめて、草葉《くさば》の蔭とやらで、お心残りでございましょう。御病気でおなくなりになったのでございますか」
「病気ではない、自分の我儘《わがまま》から死んだのじゃ」
「我儘から……」
 お豊は竜之助の荒切《あらぎ》りにして投げ出すような返答で、取りつき場のないように、言いかけた言葉を噤《つぐ》んでいると、
「いや、そんな愚痴《ぐち》は聞いても話しても由《よし》ないことじゃ」
 竜之助は、団扇をとってその墨絵をじっと見つめている。
 曾《かつ》て、島原の角屋《すみや》で、お松が竜之助の傍に引きつけられているうちに、その身辺からものすごい雲がむらむらと湧き立つように見えて、ゾクゾクと居ても立ってもいられないほど怖《こわ》くなったことがあります。今、幽霊も遊びに出ようとする夏の夕べを背景に、蒼白い沈んだ面の竜之助を、お豊がこちらから見る時に、この人の身のまわりには、やはり何かついて廻っているものがある。
 大気がにわかに蒸してきた。さっきから飲んでいた三輪のうま酒の酔いがこの時に発したのか、竜之助は、ふいと面を上げると、蒼白い面の眼のふちだけに、ホンノリと桜が浮いている。
「お豊どの、そなたは酒を上らぬか、三輪の酒はよい酒じゃ」
「いいえ、わたしはいけませぬが、お酌《しゃく》ならば……」
 お豊も自ら怪しむほどに言葉が砕けてきた。
 蒸してきた空気のために、太鼓の音も泥をかき廻すようで、竜之助もお豊も何かの力で強く押されているようです。
 そうは言ったけれど、竜之助は再び酒杯《さかずき》を手に取ろうとはせず。
 お豊は、こころもち膝をこちらに向けるようにして、二人は、やはり蒸し暑い空気に抑《おさ》えられてだまっていると、蚊遣火の煙は、その間に立ち迷うて見えます。
「お豊どの、そなたも遠からず伊勢へ帰られるそうな」
「どうなりますことやら」
「さてさて世間には、身の始末に困った人が多いことじゃ」
 竜之助は、このとき少しく笑う。
「生きている間は故郷へは帰るまいと思います、帰られた義理ではありませぬ」
「なるほど……」
「伯父は遠からず連れて帰ると申しますけれど、わたしは帰らぬつもりでございます」
「して、永くこの地に留まるお考えか」
「いいえ」
「では、どこへ」
「あの、私はいっそ、生きているならばお江戸へ行って暮らしたいと思いまする」
「江戸へ――」
「はい、江戸には叔母に当る人もあるのでございますから、それを頼《たよ》って、あちらで暮らしてみたいと思っておりまする」
「うむ、江戸で暮らす――それもまた思いつきじゃ」
「それにつきまして、あなた様には……関東へお立ちの時に……」
 お豊は、ここまで来て言い淀《よど》んだようでしたが、思い切った風情《ふぜい》で、
「突然にこんなことを申し上げてはさだめし鉄面《あつかま》しいやつとおさげすみでもござりましょうが、あなた様が関東へお下りの節……できますことならば」
「…………」
「あの、御一緒にお伴《とも》をさせていただきとう存じます」
「一緒につれて行けと申されるか」
 お豊を失望させるほど冷やかに、竜之助は呑込んだともつかず、いやとも言い出さず、やがて、
「それもよかろう、強《し》いてお止めは致さぬ」
 やっとこう言い出して、少し間《ま》を置き、
「が、そなたが江戸へ行くことは、伯父上は勿論《もちろん》のこと、ここの先生も、またそなたの御実家もみな不同意でござろうな」
「それはそうでございますけれど……もし故郷へ送り返されるようなことになりますれば、生きてはおられませぬ」
「ふむ――」
 竜之助は団扇《うちわ》を下に置いて腕を組んでみましたが、よく生命《いのち》を粗末にしたがる女よと言わぬばかりの態度にも見えましたが、また極めて真剣に何か考えているようにも見えます。
 そうして、しばらくつぶっていた眼をパッと開いて、
「よろしい、生命がけの覚悟ならば……」
 この時、表の方で人の足音がやかましい。祭りに行っていた家の連中が帰って来たものと思われる。

         十一

 その翌朝のこと、藍玉屋《あいだまや》の金蔵は朝飯も食わずフラリと自分の家を飛び出しました。
「金さん、金蔵さん」
 長者屋敷のところで、横合いから、火縄銃《ひなわづつ》を担《かつ》いで犬をつれた猟師|体《てい》の男が名を呼びかけたのをも気がつかず通り過ぎようとすると、猟師は近寄って来て、金蔵の肩に後ろから手をかけ、
「どうした、金蔵さん」
「やあ、惣太《そうた》さん」
「何だい、えらく悄気《しょげ》てるな」
「ああ、少し病気だよ」
「大事にしなくちゃいけねえよ」
「だから保養に、ここらを歩いているのだ、どうも頭の具合が面白くないからね」
「それでは金蔵さん、今日は一日、俺と高円山《たかまどやま》の方へ行かねえか、山をかけ廻ると気の保養になるぜ」
「そんな元気があるくらいなら、こうしてぶらぶらしてはいないよ、ああつまらない」
「困るな。では俺が近いうち、猪《しし》の肉を切って行くから、一杯飲んで気晴らしをしよう」
「うん」
「まあ、大事にするがいい」
 この猟師は惣太といって、岩坂というところに住み、兎、鹿、猿、狐などの獣を捕っては生業《なりわい》を立てている。ことに猪を追い出すのが上手《じょうず》で評判をとっている。女房もあって子供も三人ほどあるのに、酒が好きで、女房子を食うや食わずに置いては、自分は獲物の売上げで酒を飲んで帰ってくる。金蔵とは飲み友達で、金蔵はよくこの男に奢《おご》ってやったり、狐の皮なんぞを売りつけられたりしていました。今、二三間行き過ぎた惣太は、何事をか思い出したように引返して来て、
「金蔵さん、金蔵さん」
「何だえ」
「ホントに済まないがねえ」
「うん」
「二分ばかり貸してもらいてえ。高円山へ追い込んだ猪が明日の朝までには物になるんだ、そうすれば直ぐだ、直ぐ返すから」
「またかい」
「ナニ、今度はたしかだよ。どうも金蔵さん、女房が干物《ひもの》になる騒ぎだからな」
「貸して上げてもいいがね」
「そうして下さいよ、拝みまさあ。お前さんなんぞは何不自由のない一人息子だから、二分ぐらいは何でもあるまいが、こちとらの身にとると、その二分が親子五人の命《いのち》の種《たね》になるんだから」
「では、二分」
 金蔵は懐ろから財布《さいふ》を取り出して二分の金をつまみ、惣太の出した大きな掌《てのひら》に載せてやりました。
「有難え、ありがてえ」
 惣太はおしいただいて、また少し行くと、今度はその後ろ影を見ていた金蔵が何か思い出したように、
「惣太さん――」
「何だい」
「お前、鉄砲を持ってるね」
「猟師に鉄砲を持ってるねと念を押すのもおかしなものだね、この通り持ってるよ」
「その鉄砲というやつは、素人《しろうと》にも撃てるものかい」
「そりゃ、撃てねえという限りはねえが」
「どのくらい稽古したら覘《ねら》いがつくんだい」

 何を考えたものか金蔵は、それから毎日のように岩坂の惣太が家へ鉄砲の稽古に出かけます。
 惣太の鉄砲を借りては的《まと》を立てて、しきりにやっているので、少しずつは物になります。今日は三発とも的に当てたので、得意になって、四発目に裏山の樅《もみ》の枝にたかっていた鴉《からす》に覘いを定めて切って放つと見事に失敗《しくじ》って、鴉は唖々《ああ》とも言わず枝をはなれてしまったから、
「駄目駄目」
 惣太は傍から、ニヤリニヤリと笑い、
「生き物は、まだ早い」
「それでも鴉ぐらい」
 金蔵は口惜《くや》しそうです。
「鴉ぐらいがいけない、鴉ほど打ちにくい鳥はないのだ、鴉が打てたら、鉄砲は玄人《くろうと》だよ」
「そうかなあ。いったい、鳥では何が打ちよいのじゃ」
「そうさ、お前さんの打ちよいのはそこにいる」
「ばかにしている、あれは鶏じゃないか、雉子《きじ》か山鳩あたりをひとつ、やってみたいな」
「雉子《きじ》をひとつ、やってごらんなさい、二三日うちに山へつれて行って上げます」
「雉子が打てれば占めたものだ、それから兎、狸、狐、猪、熊――」
「そうなると、こちとら[#「こちとら」に傍点]が飯の食い上げだ。しかしこの間、曾爾《そに》の山奥では、猪と間違えて人を打った奴があるそうだ。金さん、お前もそんなことになるといけねえから、わしの見ぬところで煙硝《えんしょう》いじりは御免だよ」
「猪と間違えて人を撃つのは勘平《かんぺい》みたようなものだが、惣太さん、人を撃つのはよっぽどむつかしいものかい」
「俺も永年、猟師をやっているが、まだ人間を撃ったことはねえ……」

         十二

 夜も四ツに近い頃、三輪明神の境内には、もはや涼みの人もまれになった時分、「おだまき杉」の下に、一つの黒い人影があります。
 手に持っていた小さい徳利《とくり》を下に置いて、鑿《のみ》のようなもので、しきりに杉の根方《ねかた》を突っついていました。いいかげんに突っついてみてから、その徳利を穴へあてがってみて、また突っつき直します。杉の根方は、盤屈《ばんくつ》して或いは蛇のように走り、或いは蟇《がま》のような穴になっている、その間を程よくとり拡げて、徳利を納めるために他目《わきめ》もふらず突っついていましたが、ふいと、また一つの物影が、地蔵堂の方からゆっくりと歩んで来て、この「おだまき杉」近くまでやって来たのにも気がつかないようです。このゆっくりと歩んで来たというのは、誰であるか直ぐにわかる。それは、寝る前に必ずひとたびは、明神の境内をめぐって歩く植田丹後守であります。
 丹後守は、いま「おだまき杉」の近くへ来て、ふと、根方を突っついている忍びの人影を見つけたので歩みを止めて、何者が何をするかと、しばらく闇の中から、立って見ていました。
 丹後守の歩き方は、まことに静かで、草履《ぞうり》をふんで歩く時は、歩く時も、止まる時も、さして変りのないほどでしたから、根方の人は少しも気がつきません。
 しばらく見ていたが、つかつかと丹後守は近寄って、
「金蔵ではないか」
「はい――」
 物影は非常なる驚きで、バネのように飛び上ったのでしたが、わなわなと慄《ふる》えて逃げる気力もないもののように見えます。
「何をしている」
 丹後守は、押して穏かに問う。
「へえ……へえ」
「それは何じゃ」
 人影が藍玉屋の金蔵であることは申すまでもありません。
 丹後守に指さされたのは金蔵が、幾度も穴へ入れたり出したりしてみた、かの徳利でありました。
「へえ……これは……」
「これへ出して見せろ」
「へえ、これでございますか……これは」
 金蔵はおそるおそる徳利を取って、丹後守の前へ捧げます。丹後守は、手に取り上げて見ると徳利のように見えても徳利ではありません。長さおよそ一尺ぐらい、酒ならば一升五合も入るべき黒塗り革製の弾薬入れであります。
「金蔵、これはお前のか」
「はい……」
「お前は、鉄砲を持っているか」
「いえ……人から借りました」
「借りた――飛び道具は危ないものだぞ、これはわしが預かる」
「へえ……」
「もう、あるまいな、まだこんな物が家にあるか」
「もう、ありませぬ」
「よし」
 丹後守は弾薬入れを取り上げて、小言《こごと》も何も言わずに行
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