噛《か》んで尊皇攘夷《そんのうじょうい》を絶叫するなんという勢いになれるはずがないのです。ただ、あの喧嘩の一幕を納めた松本奎堂の意気が面白い。
「どうじゃ、吉野の方へ遊びに行かんか」
「行ってもよい」
これで相談が纏《まと》まって、彼は一行の中に加わって、またも大和の国へ逆戻りをして来たものです。
けれども、竜之助の大和の国へ逆戻りをして来た縁故がただこれだけであると思うのもあまりに淡泊《たんぱく》であります。
宿に着いて、風呂を上り夕飯も済んで例の浪士どもは、慷慨悲憤《こうがいひふん》の口調で、国事の日に非なるを論じ合っていたが、竜之助はそれに拘《かかわ》らず外へ出ました。
彼は深い編笠の紐を結びながら、桜井の宿を出て初瀬河原の方へ行く。天はうすら曇って月は朧《おぼろ》のようだ――かの仮橋を渡って微行《しのびゆ》く机竜之助はどこへ行くつもりであるか。
竜之助は三輪へ行くつもりで初瀬川の橋を渡って、ちょうどかの地蔵堂の竹藪《たけやぶ》のところまで来かかりました。天にはやはり月がある、地には露がある、蛍は露をたずねて飛ぶ、人は情に引かれて忍ぶ。
竜之助は、今、河原の地蔵堂のところまで来た。そうして、月影のさすところの行手に二つの人影を認めた。
男と女、どちらも若い。
そして、どちらも泣いているようだ。日の光のさすところでは会えない連中が、月影に忍んで泣き明かすのである、無下《むげ》に驚かすにも当るまい。さりとて、そこを通らず露の竹藪を横切るのは考えものだ。
「金蔵さん……」
泣き伏していたような女が面を上げる。ああ、その声は……竜之助は、立ってしまった。幸い、そこに地蔵堂の蔭がある。
「お豊さん」
若い男の声、これも聞いたことのあるような声。
「金蔵さん……わたしは覚悟をしました」
女は覚悟をしましたと言う。覚悟とは何をいう。
竜之助は、この女あるが故に、大和に舞い戻ったのではないか。
若い男は、
「お豊さん、覚悟とは何だい」
「金蔵さん、わたしは、もう諦《あきら》めてしまいました、わたしの身は、お前さんに任せてしまいます」
「ナニ、わしに任せる……それは真実《ほんとう》か、お前は、わしと一緒に逃げてくれるか……」
歓《よろこ》ばしさに若い男の萎《しお》れた五体は跳《は》ね起きて、女の肩へ手をかけて、
「よく言ってくれた、それは嘘《うそ》ではあるまいな」
「とても、こうした身体《からだ》でございます、その代り金蔵さん、決してほかの人を怨んで下さるな……」
「そうきまれば……お前さんさえその気なら、なんで人を怨もう。ああ嬉しい、わしの願いが叶《かな》った……こんな嬉しいことはない。お豊さん、これから直ぐに紀州へ逃げましょう、あのさっき話した通り、紀州の竜神というところへ逃げましょう、そこにはわしの親たちが温泉宿をやっている……ああ嬉しい」
竜之助のここへ来かかることは遅かった。
さいぜんからの始末をようく聞いていたならば、お豊の覚悟をしたというわけも、金蔵の嬉しがるわけも、すっかりわかるのであるが、これだけ聞いたのでは聞かない方がよかった。
何だ!軽薄な女。
もう自分のことは、すっかり忘れてしまって、ここでは別の若い男と出会って、身を任せる――言句《ごんく》は絶え果てた……男一匹がこの女のためにさんざんに翻弄《ほんろう》されていたのだ、人を斬ることの平気な竜之助は順序として、ここで、この二人を並べて置いて斬るであろう――けれども竜之助は、刀へは手もかけないし歯噛《はが》みをしている様子もない。
昔は、この女がまた別の男と心中の相談をして遺言《かきおき》を書いているところを、よく知り抜いていながら助けようともしなかった。今は同じ女が仇《あだ》し男《おとこ》に身を任せると誓いを立てたのを聞いて、やはりそのままで置く竜之助の気が知れない。
「お豊さん、お前はいったん死んだ体、わしもいったん地獄を見て来た体、生《うま》れ更《かわ》り同士がこうして一緒になるのも三輪の神様のお引合せだね」
金蔵はお豊の手をとった。お豊は金蔵のする通りにさせて、争わない。
竜之助は、地蔵堂の蔭に立ったなりで、何と手出しもしませんでした。
底本:「大菩薩峠1」ちくま文庫、筑摩書房
1994(平成6)年12月4日第1刷発行
1996(平成8)年3月10日第5刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年5月11日公開
2004年3月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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