え、鎌宝蔵院《かまほうぞういん》の槍の道場も、この興福寺の寺中に跡だけは残っているのでござりまする。春日様へ御参詣をなすって、二月堂の方から大仏へおいでになり、それからいらっしゃいますとそこに道場だけは残っているのでございますが、槍をお使いなさるお方なんぞは一人もおいではございませぬ」
言われた通りに来て見ると、なるほど鎌宝蔵院の槍の名残《なごり》の道場、棟行《むねゆき》は十二三間もあろうか、総拭《そうぬぐい》の板羽目《いたばめ》で、正面には高く摩利支天《まりしてん》を勧請《かんじょう》し、見物のところは上段下段に分れて道場の中はひろびろとしている。ここでも案内の僧は、よく説明して聞かせました。
「御承知でもござろうが、この宝蔵院流槍の開祖は、当院の覚禅房法印胤栄《かくぜんぼうほういんいんえい》と申して、もとは中御門《なかみかど》氏でござったが、僧徒に似合わず武芸を好んで、最初は剣術を上泉伊勢守《こういずみいせのかみ》に学ばれたものじゃ。後に大膳太夫盛忠《だいぜんだゆうもりただ》というものについて槍術を覚え、それより自ら一流を開いたものでござるが、もとより武芸は出家の心でない、覚禅房
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