《ななすぎ》のなかの「門杉」の故事は、ここにいえば長い。
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我が庵《いほ》は三輪の山もと恋しくば
 ともなひ来ませ杉立てる門《かど》
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の歌がそれです。
 お豊は、その門杉には別に願いをかけることもなく、楼門の石段を下りても、その方へは別に足を向けないで、宝永三年、大風のためにその一本を吹き折られた名ばかりの二本杉の方へ参ります。
 一人は死に一人は助かる運命が、ちょうどこの二本杉のようだと思われるお豊には、三輪の七つの神杉のうち、この二本杉ばかりを拝みたい。一つには、この杉に願いをかければ、いったん夫婦の契《ちぎ》りを結んで一方の欠けた人々には、この上なき冥福《めいふく》があるという――かの門杉は縁を結ぶの杉で、この二本杉は縁の切れた杉である。
 一《いつ》は青春の子女に愛せられ、一は寡独《かどく》の人に慕われる。
 吹き折られた杉の傷のあとは、まだ癒《い》えない。そこから辛《かろ》うじて吹き出した芽生えを見ているお豊の面には痛々しい色があります。

         七

 机竜之助も、ふとこの朝、植田の邸を出て、爽《さわ》やかな夏の朝
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