いんろうざや》の武士は衆を顧みて腕をまくり立てる。
「結構、事の血祭りに幕府の間諜《いぬ》を斬れ、伊賀の上野とは幸先《さいさき》がよい、やい幕府の間諜、表へ出ろ、荒木が三十六番斬りの名所を見せてやる」
 彼等は竜之助を、その鍵屋の辻へ引張り出して斬ってしまおうと考えたらしい。まことに無意味な行きがかりに過ぎないけれども、竜之助はそれを拒《こば》むべき人ではなかった。
 この時、向うの室の床柱を背負って、さっきから少しも動かずに茫然《ぼうぜん》と事のなりゆきを見ていた小兵《こひょう》にして精悍《せいかん》、しかも左の眼のつぶれた男があったが、
「おのおの方、詰《つま》らんことをなさるな」
 小兵にして精悍な、左の眼のつぶれた右の浪士は、膝の上に絵図をひろげて眺めていながら、さいぜんからの騒ぎは、よそを吹く風のようにしていたが、この時はじめて頭を振向けてこう言った。
「あまりといえば無礼な奴」
「無礼は、こちらのこと」
「先生、これは間諜《いぬ》でござる、幕府の犬に違いござらぬ」
「なんにしても、おのおの方よりは少し強いようじゃ」
「宿を騒がすも気の毒ゆえ、鍵屋の辻へ引っぱり出して斬ってしまおうと存じます」
「あべこべに斬られてしまうぞ」
「何を! たかの知れたる間諜」
「フム、こっちで模様を見ていると、先方の方がよほど強い」
「左様なことはござりません、先生にも似合わんことをおっしゃる」
「強い、強い、先方が強い。この分で、鍵屋の辻へ行こうものなら瞬《またた》く間《ま》に、おのおの方が撫斬《なでぎ》りになる」
「これは先生のお言葉とも覚えん、さほどに我々を見縊《みくび》り給うか」
「とにかく引上げ給え、こちらの出様が悪い、かけ合いが礼儀でない」
 小兵にして精悍な、左の眼のつぶれた浪士と、他の浪士どもとの問答はこんなふうであります。味方をたしなめて敵の者を賞《ほ》めている。竜之助はその言葉つきの妙に落着いたのを聞いて、その何者であるかを訝《いぶか》っていたが、乱暴な浪士どもの気勢は、これですっかり折れてしまった。
「さて、明日は大和へ入って萩原《はぎわら》へ泊る、それから宇陀《うだ》の松山へ出ようか、初瀬《はつせ》へかかろうか」
 左の眼のつぶれた浪士は、また地図を拡げて、
「萩原から松山まで二里一町――松山から上市までが四里と十三町――これを初瀬の方へ廻ると榛原《は
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