て薩州風、落ちていた鞘までが薩摩出来に違いないのであった。
「田中新兵衛――」
 薩摩の田中新兵衛とは何者とたずぬるまでもなく、その時分、評判者の斬り手である、人を斬りたくって斬りたくってたまらない男である。島田左近を斬ったのもこの男だと言われているのである。そうして、当時有名な志士の間にも交際がある、現に四五日前も、姉小路少将の家へ来て何か意見を述べて行ったことがあるという。
「田中を捉《つか》まえろ」
 田中は平気で薩州の邸内に寝ていた。呼び出してみると、
「左様なことは存ぜぬ」
 頑として、首を横に振る。
「存ぜぬとは卑怯《ひきょう》であろう」
 役人は詰《なじ》る。
「卑怯とは何だ、知らぬ者は知らぬ、存ぜぬことは存ぜぬ」
 新兵衛は役人をハネ返した。
「証拠が物を言うぞ、隠し立てをするな」
 役人は突っ込む。新兵衛は沸然《むつ》として、
「田中新兵衛は人を斬って、刀を捨てて逃げるような男ではござらん」
 あくまで手剛《てごわ》いので、役人は下役を呼んで持って来さしたのが、例の捨てて逃げた刀である。
「新兵衛、この刀に覚えがあるか」
 役人は、それ見たかと言わぬばかり。
「拝見」
 新兵衛は、その刀をとって見た。自分の刀である。
「さあ、どうじゃ、その刀は誰の刀であるか」
 新兵衛はじっと見ていたが、
「これは拙者の差料《さしりょう》に相違ない」
「そうであろう」
 役人は勝利である。
 ここに至って、潔《いさぎよ》き新兵衛の白状ぶりを期待していると、新兵衛はその刀を取り直すが早いか我が脇腹《わきばら》へ突き立てた。
「や!」
 並み居る役人も番卒も、一同に仰天《ぎょうてん》した。支えに行く間に、もう新兵衛はキリキリと引き廻して咽喉笛《のどぶえ》をかき切り見事な切腹を遂げてしまった。
 あまりのことに一同のあいた口がふさがらなかった。
 新兵衛は刀はたしかに自分の物と承認したけれど、姉小路を殺したのは俺だと白状はしなかった。これがために、疑問はいつまでも残された。
 竜之助の次の間でも問題になったが、一説には、その前日、新兵衛は三本木あたりの料理屋で飲んでいるうちに、何物にか刀を摺《す》りかえられたという。武士が差料《さしりょう》を摺りかえられたことは話にならぬ、さすがの田中がその当座、悄気《しょげ》返《かえ》っていたという。
 とにかく、姉小路を殺したものは
前へ 次へ
全58ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング