を噛《か》んで憤《いきどお》った。
「源太郎どの、賊は幾人ほどじゃ、何か見覚えはないか」
「たしか二人――わたしを撃っておいて、お豊を引捉《ひっとら》えて、馬に載せて、あちらへ、あちらへ」
 源太郎の介抱《かいほう》を馬子に任せておいて、竜之助は立って前後を見る。乗って来た馬は駄馬である、所詮《しょせん》敵を追うべき物の用には立たぬ。
 少し北へ寄った原中に、一つの小高い塚、その上には大きな松が聳《そび》えている。
 すすきの茂る小野の榛原《はいばら》。竜之助はともかくもその塚までかけつけて、眼の届く限りを見渡す。ただ茫々《ぼうぼう》たる原野につづく密々たる深林と、遠くは峨々《がが》たる山ばかり、人の気配《けはい》は更にない。
「ああ……」
 溜息《ためいき》をつくと共に冷然たる己《おの》れに返った。いくら尋ねても無駄! 案内知った者ならば、この野原をいずれの方角へでも逃げられる、逃げて窮すれば、山の中に入る、山でいけなければ、谷へ隠れる――不知案内の自分が、いくら追うたとて所詮《しょせん》無益である。
 竜之助には、咄嗟《とっさ》の間《ま》にも利と不利とを判断する冷静があった。

         十四

 奈良の春日神社の前。
 宇津木兵馬は茶屋へ腰をかけ笠の紐をとく。
「ええ、毎年五月には子を産みまする、これはついこのあいだ生れたばかりでございます。エエ、もう人間と同じこと、この鹿は一頭で一つしか子は産みませぬ、生れると、煙草一ぷくの間に、もうひょこひょこと歩き出しますでございます。紅葉ふみわけ啼《な》く鹿と申しましても、秋は子を生む時ではございませんで、妻恋う鹿と申しまして、つまり夫婦和合の時でございますな」
 茶店の主人は鹿の話からはじめて、
「左様でございましたか。春日様は藤原家の氏神《うじがみ》でござりますが、もとは鹿島《かしま》の神様のおうつしでございますから、やはり、お武家様方の守り神でござります、春日四所大神と申しまして、その第一殿が常州鹿島の明神、第二殿が下総香取《しもうさかとり》の明神と申すことでござりまする」
 案内をかねて、よく故事を教えてくれる。
 兵馬は、ここでちょっと聞いてみたくなったことは、この奈良の土地から起った宝蔵院流の槍の道場の跡が、まだこの地に残っているとのことであるが、それが今どうなっているかということでした。
「えええ
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