れば、敵呼《かたきよ》ばわりは致しますまい」
 七兵衛は笠をとりながら、
「兵馬様は、ただいま八木の宿《しゅく》におられまする、これより八木の宿までは八里もござりましょう、私は一時《いっとき》が間に、そこまで御注進《ごちゅうしん》に上りまするほどに、あなた様にも武士の道を御存じならば、それまでこれにお控え願いたい。引返してお立合い下さるならば、八木、桜井、初瀬の河原、あのあたりで程よき場所を定めて、晴れの勝負を願いたいものでございます」
 七兵衛はジリジリと押しつめるように竜之助に返答を促《うなが》したが、竜之助は取合わず、
「勝手にせよ」
 腮《あご》で馬子に差図《さしず》して静かに馬を打たせようとする。
「お逃げなさるは卑怯《ひきょう》ではござりませぬか」
 七兵衛がやや冷笑を含んで言い放つと、竜之助は、
「机竜之助は逃げも隠れもせぬ、これより伊勢路へ出て、東海道を下る。宇津木兵馬とやらにそう申せ、敵《かたき》に会いたくば、あとを慕うて東海道を下って参るように。追いついたところでいつなりとも望みのままの勝負」
 七兵衛がなお何をか言わんとする時、林の中のどこからともなく轟然《ごうぜん》と鉄砲の音! つづいて、人の絶叫!
 竜之助は七兵衛を捨てて無二無三に馬を前へ走らせた。

 薬屋源太郎だけ、ただ一人、道の真中に打倒れている。
 その乗った馬は向うの樹の根に身震いして立っているが、馬子の姿は見えない。
 お豊に至っては、馬も馬子ももろともに、どこへ行ったか見えないのである。
 竜之助は馬から飛び下りて、源太郎を抱き上げた。
 弾丸《たま》は股《もも》を貫《つらぬ》いたらしく、大した傷ではないけれども、驚きのあまりに気絶している。
「源太郎どの、源太郎どの」
 呼び生かすと、
「むむ」
「気を確かに、傷は浅い」
「ああ……吉田様、早く、お豊を早く……」
 源太郎は気がつくと直ぐに、手を上げて藪《やぶ》の彼方《あなた》を指すのであった。思い設《もう》けぬ不覚である。道中かかることの万一にもと、丹後守が心添えして附けられたものを、まだその国許《くにもと》を離れない先にこの有様では、なんと申しわけが立つ。人に申しわけではない、大切の守り人を眼前に奪われて、武術の冥利《みょうり》がどこにある。
 そればかりではない、お豊は奪われてならない人である――物に冷やかな竜之助も歯
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