を見ると、ただ一人、この小野の榛原《はいばら》を東から歩み来る旅人があります。
「ドレドレ」
「それ、覘《ねら》いをつけてみろ」
「うむ」
 金蔵は鉄砲を取り直して構えてみたが、支え切れないと見えて、小土手へ銃身を置いて、目当《めあて》と巣口《すぐち》を真直ぐに、向うから来る旅人に向けてみましたが、
「やあ、速い、速い、恐ろしく足の早い奴だよ」
 なるほど、向うから来る旅人の足の速力は驚くべきものです。土手へ鉄砲を置いた時に弥次郎兵衛ほどに小さかった姿が、巣口を向けた時は五月人形ほどになり、速い、速いと驚いた時は、もう眼の前へ人間並みの姿で現われています。
「まるで、飛んで来るようだ、こりゃ天狗《てんぐ》だ、魔物だ」
 さすがの二人が呆気《あっけ》にとられているうちに、眼の前を過ぎ去って、並木の彼方《かなた》へ見えなくなってしまいます。
「驚いたなあ! 足の早い奴もあればあるものだ」
 人相の悪いのが苦笑《にがわら》いをする。
 しばらく無言で、二人は旅人が過ぎ去った方の路を、やはり木の葉の繁みから一心に見つめていたが、
「それ、来たぞ!」
「やあ、やあ」
 金蔵は声と共に胴震《どうぶる》いをはじめました。人相の悪いのは平気なもので、
「いいかい、金蔵、よく度胸を落着けろ、それ、前の奴が親爺《おやじ》で、後のが女だ、オヤオヤ、武士《さむらい》の見えぬのはおかしいぞ、とにかく、前の親爺をドンと一つ、いいか、あとはおれが引受ける」
 申すまでもなく、二人が覘《ねら》う当《とう》の的先《まとさき》を通りかかる前のは薬屋源太郎で、後のはお豊であります。
 机竜之助は、どうしたか、まだ姿を見せない。そうだ、さっき通りかかった、あの足の早い旅人と行違いになって、何か間違いでも出来はしないか。

 まるきり執念《しゅうねん》のない者と、どこまでも執念の深い者は、どちらも始末に困ります。
 金蔵の執念は、とうとうここまで来てしまった。慄えながら鉄砲の覘いをつけているところを見ればおかしくもあるが、面《かお》の色を真蒼《まっさお》にして命がけの念力を現わしているところを見れば、すさまじくもあります。
「モット落着いて……馬の腹を覘え、馬の腹と人の太股《ふともも》を打ち貫《ぬ》く気組みで……まだまだ、ズット近くへ来た時でいい」
 傍で力をつけている人相の悪い猟師は、最初に金蔵に鉄砲を教
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