にわしが思いつめたのが無理かい」
「ああ、わたしは、どうしてよいかわからない――」
「わからないことはないのだよ、わたしと一緒に、お前が逃げてくれさえすれば、わしは全く心を入れかえて、お前が商売をしろと言えば商売もする、江戸へ行きたいといえば江戸へ行く、どうしてお前のからだに、こんな怖ろしい刃物なんぞを当ててよいものか……お前を大切《だいじ》の大切のものにして可愛がるのだよ、薬屋やお陣屋へ火をつけるなんぞ、そんな大それたことを、誰が好きこのんでやるものかな……お豊さん、もう一ぺん考え直して下さい、わしは、お前が思い切れない――」
 金蔵はお豊の胸倉《むなぐら》をはなして、その手で滝のように落ちる自分の涙を拭きました。無体《むたい》の恋慕《れんぼ》ながら真剣である、怖ろしさの極みであるけれども、その心根《こころね》を察してやれば不憫《ふびん》でもある。
「金蔵さん、わたしには、わからない、どうしてよいのかわかりません」
「お豊さん、そこで静かに考えて下さい、わしも考えるから」

 お豊の見た眼に誤りはなく、机竜之助はかの伊賀の上野から、松本|奎堂《けいどう》らの浪士と一緒になってまた大和の国へ逆戻りをして来たものです。
 薬屋の二階からその姿を認めて、お豊がここまで足を引かされたことも、まるきり夢ではありませんでした。
 しからば、竜之助は今どこにいるか――なんでもないこと、川を隔てた直ぐ向うの桜井の町へ、一行の浪士と共に宿をとっているのでした。
 これら浪士の一行が、この後、中山|忠光《ただみつ》を奉じて旗上げをした「天誅組《てんちゅうぐみ》」の卵であることは申すまでもありません。
「天誅組」は天忠組である、天朝《てんちょう》へ忠義を尽す義士たちの寄合いである。そうして机竜之助は、かの新徴組から新撰組にまで、腕を貸した男である。新徴組や新撰組は幕府の味方である、天忠の志士とは根本から目的が違うのであります。
 では、机竜之助こそ、松本奎堂あたりに説かれて、改めて天朝へ忠義の心を起したか、徳川へ尽す志を変じたか。
 そんなはずはない、竜之助が新徴組に腕を貸したのとても、なにも徳川に恩顧があるわけでもなければ、幕府を倒してはならないという義憤があるわけではないので、ただ行きがかり上そうなったまでであります。
 されば、「天誅組」の仲間になったとても、事改めてギリギリ歯を
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