あ殺して下さい」
「ナニ、殺せ? よし殺すとも」
金蔵は短刀の鞘《さや》を払って、お豊の胸元を左の手で掴む、お豊は争わず。こうなってみると、無茶な金蔵にも刃《やいば》が下せない。
「お豊さん、殺される命なら、ナゼ生きた身体をわしにくれないのだい……同じことじゃないか、生きていた方が割がいいじゃないか」
「金蔵さん、もうそんなことを言わないで、早く殺して下さい」
「殺す、殺すには殺すが……お豊さん、もう一ぺん考えてみておくれ」
「わたしは死んだほうがようござんす」
「死んだ方がいい? ああ、なぜお前はそんなにわからねえのだ。よし殺す……そうしてお豊さん、わしは、ここでお前を殺しておいてね、薬屋の家へ火をつけるよ、それから、陣屋の植田へも火をつけるよ、その上に三輪の神杉へも鉄砲の煙硝《えんしょう》を振りまいて火をつけるよ、そうして薬屋の者も丹後守の奴めも、殺せるだけ殺して、わしはその火の中で焼け死ぬのだ、いいかい――」
「まあ、金蔵さん――待って下さい、待って下さい、金蔵さん」
お豊は今となっては、金蔵の手を抑《おさ》えて、
「金蔵さん、お前は、わたしの命を取っただけでは堪忍《かんにん》ができないかい、そんな大それたことをホントになさる気かい」
「するとも――あの薬屋の源太郎めは、わしの親から、お前さんを貰いたいと頼んだのに、てんから謝絶《ことわ》ってしまいやがった。あの丹後守は、お前を隠して、わしに会わせなかった。この二人は深い怨《うら》みだから、わしは、ここでお前を殺しておいて、その怨みを晴らすのだ、刷毛《はけ》ついでにあの三輪の杉へ火をかけて、丸焼きにしてくれる」
「ああ、どうしましょう、金蔵さん、それだけはよして下さい、わたしをここで存分に斬るとも突くともして、それでほかの怨みは帳消しにして下さい」
「そうはいきませんよ、わしの親たちが、先祖からのこの三輪の土地にいられなくなったのは誰のおかげだい――わしはもう、あの三輪というところを焼き亡ぼしてしまって、そうしてその火の中で焼け死ぬのだよ」
「金蔵さん、なぜ、お前はそんな怖ろしいことをします」
「そんな怖ろしい心にしたのは、誰だい、お豊さん」
「金蔵さん、そんな無理なことを言わないで……」
「何が無理だい、お前が人のおかみさんならば、わしの言うことが無理かも知れないが、お前は定まる夫のない身ではないか、それ
前へ
次へ
全58ページ中54ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング