、どうやらその声は聞いたようじゃ」
これは井村の声で二足三足、兵馬の方へ近寄って来ます。
「やあ、宇津木君ではないか」
「その声は井村氏か」
井村は、こんなところで兵馬に遭《あ》うことをまことに意外と思い、同時に不安が湧いて来るらしく、
「どうして今頃、こんなところを……貴殿にも似合わない」
「七条へ参っての帰りがけ、つい道に迷うて」
「ハハ、なるほど、この道は貴公らの迷うべき道じゃ。ここを真直ぐに行くと、あの明るい里。あれ、微かに三味太鼓の音も聞ゆるは、あれが我々共の極楽世界。君のたずぬる壬生のお寺は、あれあの高い屋根の棟《むね》がそれよ」
田圃の中に、黒く高く湧き立った地蔵寺の大屋根を指す。
「あれが地蔵寺……なるほど、そういえばここが島原、それでわかった」
「待て待て、宇津木」
「何か用か」
「これから直ぐに壬生へ帰るか」
「帰る」
「それはいかん、ここまで来ては、もう逃がしっこなし」
井村は兵馬の袖を捉《とら》えて、非常に気味の悪い言葉遣いで、
「つき合え、一緒に来い」
「どこへ」
「恍《とぼ》けるなよ、我々が行くところへ来い」
「いや、拙者は、そうしてはおられぬ」
「わからずやを言うなよ、隊長の近藤君や、芹沢君はじめ、みんなこの島の定連《じょうれん》なのじゃ、貴様、若いくせに、ここまで来て素通《すどお》りという法があるか」
「拙者は左様な粋人《すいじん》とは違う」
「いや、そうでない、貴公のようなのが、女には騒がれる。都へ来て島原の太夫《たゆう》を知らんというは話にならんテ、なあ溝部《みぞべ》」
「それに違いない」
「それ見ろ、一度この中へ入って済度《さいど》を受けてみんことにゃ、世の中の人情というものの極意《ごくい》がわからん」
壬生と島原とは呼び交わすばかりの間である。兵馬としても、ここに島原のあることを知らないはずはないが、井村はしきりに兵馬の袖を引張って放しません。
その言うがままに行ってみたらどうだろう、そうして彼等の為すがままに任せておいて、それから、何かを機会に調べてみたら、それも妙ではあるまいか。
兵馬は、ふと、こんなことを思い出して、強《し》いて袖を振り放そうとしないうちに、もう遊廓《ゆうかく》の一町ほど手前まで来てしまいました。
「よし、行くところまで行ってみよう」
ついに大門《おおもん》の前まで来た。
「これ見ろ宇津木、ここが大門で、それここに柳があるが、これが有名な出口の柳というものじゃ。入口にあっても出口という、これいかに。島原七不思議の第一はこれじゃ。中は昼より明るいぞ。一足入れば歌舞の天女、生身《しょうじん》の菩薩《ぼさつ》が御来迎《ごらいごう》じゃわい」
島原|傾城町《けいせいまち》の夜は盛んなる眩惑《げんわく》を以て兵馬の眼の前に展開される。
七
島原の誇りは「日本|色里《いろざと》の総本家」というところにある、昔は実質において、今は名残《なご》りにおいて。
今の島原は全く名残りに過ぎない。音に聞く都の島原を、名にゆかしき朱雀野《すざくの》のほとりに訪ねてみても、大抵の人は茫然自失《ぼうぜんじしつ》する。家並《やなみ》は古くて、粗末で、そうして道筋は狭くて汚ない。前を近在の百姓が車を曳いて通り、後ろを丹波鉄道が煤煙《ばいえん》を浴びせて過ぐる、その間にやっと滅び行く運命を死守して半身不随の身を支えおるという惨《みじ》めな有様であります。
安永から天明の頃、江戸の俳諧師《はいかいし》二鐘亭半山《にしょうていはんざん》なるものの書いた「見た京物語」には、
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「島原はまはり土塀《どべい》にて甚だ淋し、中《なか》の町《ちょう》と覚しき所、一膳飯《いちぜんめし》の看板あり」
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とあって、それよりやや降《くだ》り、
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「島原の廓《くるわ》、今は衰へて、曲輪《くるわ》の土塀など傾き倒れ、揚屋町《あげやまち》の外は、家も巷《ちまた》も甚だ汚なし。太夫の顔色、万事祇園に劣れり」
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とは、天保の馬琴《ばきん》が記したものにある。
ましてや、それよりまた小一世紀を隔つる大正の今の時、問題の土塀もくずれ果てて跡方もなく、小店《こだな》には、日々に空家《あきや》が殖《ふ》えて、大店《おおだな》は日に日に腐ったまま立ち枯れて、人の住まなくなった楼の塗格子《ぬりごうし》や、褪《さ》め果てた水色の暖簾《のれん》に染め出された大きな定紋《じょうもん》が垢《あか》づいてダラリと下った風情《ふぜい》を見ると、「嵯峨《さが》や御室《おむろ》」で馴染《なじみ》の「わたしゃ都の島原できさらぎ[#「きさらぎ」に傍点]という傾城《けいせい》でござんすわいな」の名文句から思い出の優婉《ゆうえん》
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