ねんとしてこれまで来たのです。
「その人はどっちへ行った」
「さあ、ちとばかり前、あちらの方へ、田原本の方へ行きました」
「田原本へ――」
 七兵衛は忙《せわ》しく懐中へ手を入れて、
「親方、いくらになる」
「お客様、その刀もお買い下さいますか」
「買おう、売ってもらいましょう」
「饅頭の方が八十文いただきます、刀はちと価《ね》が張ります」
「いくらで売る」
「はい、五両、ちとお高うございますが、仕込みが安くございませんから、へえ」
 七兵衛は、黙って五両と一分をそこへ抛《ほう》り出して、その刀を抱《かか》えてこの店を飛び出しました。

 長谷寺《はせでら》の一の鳥居。机竜之助はそこへ立ち止まって、
「これこれ、巡礼衆」
「はい、私どもに御用でございますか」
「ちと、物をたずねたいが、あの長谷の観音の籠堂《こもりどう》と申すのは、誰が行っても差支えないか」
「ええええ、差支えのある段ではございませぬ、人の世で見放されたものをも、お拾いなさるのが観音様の御利益《ごりやく》でござります」
「左様か、忝《かたじ》けない」
 僻《ひが》んで取れば、この巡礼の返答ぶりも癪《しゃく》にさわる。おれの今日《こんにち》の運命は自ら求めたもので、おれは落魄《おちぶ》れても気儘《きまま》の道を歩いているのだ、まだ神仏におすがり申して後生《ごしょう》願うような心は起さぬ。竜之助の心には、充分の我慢が根を張っているけれども、差向き今の身に宿を貸してくれるところは、神社仏閣の廂《ひさし》の下のほかにはありそうもない。それで、いま通りかかる巡礼に長谷の観音の籠堂を聞いてみたのであります。
 夕暮の色は、奥の院から下りて来る。黒崎、出雲《いずも》村の方は夕煙が霞のようになって、宿に迷う初瀬詣《はつせまい》りの笠が、水の中の海月《くらげ》のように浮動する。聞かでただあらましものを今日の日も、初瀬の寺の入相《いりあい》の鐘は、今し九十九間の階廊《かいろう》を下りて、竜之助の身にも哀れを囁《ささや》く。
 わが子を縁から蹴落《けおと》し出家入道を遂《と》げた西行法師《さいぎょうほうし》が、旧愛の妻にめぐり会ったという長谷寺の籠堂《こもりどう》。竜之助はともかくもここで夜を明かそうとして、その南の柱の下に来ました。



底本:「大菩薩峠1」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年12月4日第1
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