「こりゃお土産じゃねえよ」
この包みにはお浜の遺髪が入っているのです。
「太郎作さん、俺《おら》が水車《くるま》は大丈夫かえ」
「ああ大丈夫だよ」
「水で突《つ》ん流されるようなことはなかったかい」
「うん、そんなことはねえ」
「さよなら」
与八はスタスタと出かけます。
御岳《みたけ》の山も沢井あたりの山も大菩薩の方も、眼の前に連《つら》なっています。与八はこれを見るとまた悲しくなって、そっと後ろの郁太郎を振返ると、子供は無心に寝入っている。ぼんやり立ち止まっては、提げていたお浜の黒髪を包んだ風呂敷に眼が落ちると、ひとりでに涙がこぼれます。与八は善いことをしては、いつでもそれが悪い結果になる。あれもこれもみんな自分が馬鹿だから。これからは罪滅《つみほろ》ぼしに多くの人の追善《ついぜん》をはかり、かたわらこの子を育て上げて立派な人にして申しわけを立てねばならぬ。与八には人を怨《うら》むという考えがなくて、一も自分が悪い、二も自分が悪いで通って行くのです。
「俺《おら》の大先生《おおせんせい》に拾われたところはここだ」
与八はその昔、自分が拾われたというところへ来て一休み。
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[#ここから2字下げ]
ちちははの めくみもふかき こかはてら
ほとけのちかひ たのもしきかな
[#ここで字下げ終わり]
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十五
[#ここから4字下げ、罫囲み]
東海道、関《せき》
江戸へ百六里二丁
京へ十九里半
[#ここで字下げ、罫囲み終わり]
伊勢の国|鈴鹿峠《すずかとうげ》の坂の下からこっちへ二里半、有名な関の地蔵が六大無碍《ろくだいむげ》の錫杖《しゃくじょう》を振翳《ふりかざ》し給うところを西へ五町ほど、東海道の往還《おうかん》よりは少し引込んだところの、参宮の抜け道へは近い粗末な茶店に、七十ばかりになるお爺《じい》さんが火縄《ひなわ》をこしらえながら店番をしていると、
「許せ」
上りの客はこの宿《しゅく》で、下りの客は坂の下あたりで宿《やど》をきめてしまったと思われる時分、この茶店へ飄然《ひょうぜん》と舞い込んだのは一人の旅の武士《さむらい》であります。
「おいでなさいまし」
老爺《おやじ》は火縄の手を休めて腰を立てると、武士は肩にかけた振分けの荷物を縁台の上に投げ出して、野袴《のばかま》の裾《すそ》をハタハタと叩《たた》き、
「老爺《おやじ》」
「はい」
「汲みたての水を一杯|所望《しょもう》」
「はいはい、汲みたての水、よろしゅうございます、うちの井戸は自慢ものの上水《じょうみず》でございまして」
老爺が水を汲みに裏へ廻る時、件《くだん》の武士は縁台に腰を下ろしていたが、頭にいただいた竹皮笠《たけかわがさ》は取らず、細く胴金《どうがね》を入れた大刀を取って傍《わき》に置き、伏目《ふしめ》になった面《かお》を笠の下からのぞくと、沈みきった色。
机竜之助はともかくも、京都をめざしてここまで落ちて来たものです。
老爺が手桶《ておけ》に汲んで来てくれた水を、竹の柄杓《ひしゃく》で一口飲んで、余水《のこり》を敷居越しに往還へ投げ捨てて、柄杓を手桶に差し込んでホッと息をつく。
「お茶をいかがでございますな」
老爺が念を押してみると竜之助は首を左右に振る、火鉢をすすめても煙草をふかす様子もないし、詮方《せんかた》なく老爺は再びもとの座に戻って火縄にかかろうとすると、
「草鞋《わらじ》を一足くれぬか」
「はいはい」
吊《つる》された手づくりの草鞋一足を引き抜いて、
「峠を三度上り下りしても大丈夫、金《かね》の草鞋というのでございます」
老人の癖《くせ》は自慢である、水を飲ませるにも草鞋を売るにも、すべて自慢がつき纏《まと》う。
「それはそうとお武家様、今から草鞋を穿《は》き換えていずれへござらっしゃる」
竜之助の穿き換える足許《あしもと》を見ながら、老爺が不審を打ったのは、この宿《しゅく》で泊るにしても、坂下まで行くにしても、まだ持ちそうな草鞋を捨てるのは早い。
竜之助はその不審に答えなかったから、老爺は手持無沙汰《てもちぶさた》で、
「降らねばいいに」
軒端《のきば》から天を仰いで独言《ひとりごと》。
なるほど、今日は朝から陰気臭い日和《ひより》であった、関の小万《こまん》の魂魄《こんぱく》が、いまだにこの土《ど》にとどまって気圧を左右するのか知らん、「与作思えば照る日も曇る」の歌が、陰《いん》に響けば雨が降る。
「今夜はこの宿でお泊りが分別《ふんべつ》でござりましょうがな」
老爺は忠告とも独言ともつかないようなことを言って、また坐り込んで火縄にかかる。
草鞋を穿き終った竜之助は、笠越しに空を見上げているところへ、
「さあ御新造
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