歯噛《はが》みをする。
郁太郎の苦しむことさえなくば、室の中も戸の外も、静まり切った丑三時《うしみつどき》で、しんしんと更《ふ》けてゆきます。天井ではまたしても鼠が走《は》せ廻る、その足音が「ざまを見ろ」というように聞える。
お浜は天井をまでも仇《かたき》のように見上げて、見下ろすと、痛々しい繃帯《ほうたい》が泣き疲れた郁太郎の繊細《かぼそ》い首筋を締めつけるもののように見えて、わけもなくかわいそうでかわいそうでたまりません。
「坊や、大切におし、咽喉《のど》はだいじだからね」
お浜はこう言ってホロホロしながら、じっと我が子の面《かお》を見つめて、
「お前が万一《もしも》のことがあれば、このお母さんは生きていられないよ」
実際、郁太郎は今までよく育ったもので、肉附きはよし、麻疹《はしか》も軽くて済み、誰が見ても丈夫そうで、他人さえ可愛いらしかったくらいですから、お浜にとって、どうして可愛がられずにいられよう。
「ほんとに、思い出しても憎い畜生だ」
可愛さ余っての憎さはまた鼠の方へ廻る。
お浜は医者を待つ用意で寝衣を平常着《ふだんぎ》に着換えようとして、ようやく少し静まった郁太郎を、そっと蒲団の上に置こうとすると、郁太郎はまたひーと泣き出す。ハッとしてお浜はまた抱き直すと、さあ、それから、また泣き出して、もう声も涸《か》れきっているのに、涙ばかりをホロホロとこぼし、パッチリとあいた眼に、じっと母親の面《かお》を見据えて五体をわななかせる。
「坊や、まだ痛いかえ。まあお前、そんな怖《こわ》い面をして母さんを見るものじゃありませんよ」
お浜は力も折れて泣きました。郁太郎は身をふるわせて母にしがみつくように、その眼は瞬《またた》きもせずに母の面のみ見つめていますから、
「まあ、お前はナゼそんなにお母さんを苛《いじ》めるの、なんという因果だろうねえ」
お浜は泣きながら我が子の面を見ていたが、
「ああ罰《ばち》だ、罰だ、これがほんとの天罰というのに違いない」
投げ出すように郁太郎を蒲団《ふとん》の上に差置いたお浜の眼は、物に狂うように光っておりました。
お浜がいまさら天罰を叫ぶは遅かった。しかし、遅かれ早かれ、一度は天罰を悟ってみるのも順序であります。
我が子なればこそ、これほどのささやかな創《きず》に気も狂うほど心配するものを、今お浜が、
「ああ怖い」
と言って慄《ふる》え上った瞬間に眼前にひらめいた先《せん》の夫《おっと》文之丞のことはどうだろう、木刀の一撃にその人が無残の最期《さいご》を遂《と》げた時、お浜という女はその人のために、どれだけ悲しみ、その相手をどれだけ怨《うら》んだか。
お浜とても、今まで寝醒《ねざ》めのよいことばかりはなかったのですが、今という今、苦しがる郁太郎の面《かお》に文之丞の末期《まつご》の色がある。天井で噪《さわ》ぐ鼠の音、それが文之丞の声。屏風《びょうぶ》の裏、そこから幽霊が出て来るよう。仏壇の中、そこには文之丞が蒼《あおい》い面をして睨《にら》めている。蒲団の唐草《からくさ》の模様を見ると、その蔓《つる》がぬるぬると延びて来て自分の首に巻きつきそうにする。鏡台の裏からは長い手が出てお浜の胸や腹を撫《な》で廻そうとしている。針箱の抽斗《ひきだし》からはむらむらと雲が出て来てお浜の目口に押込もうとする。障子の破れから今にも鬼が出て郁太郎を浚《さら》って行きそうでならぬ。
室の内、どこを見てもここを見てもみんな恐《おそ》ろしいものばかり。お浜は眼がクラクラして、じっとしていられなくなったので、立って小窓を押しあけて外を見ました。
夜の空気がさやさやと面に当るのでお浜はホッと息をついて、また郁太郎を抱き上げて、窓のところへ立ちながら、
「ほんとに、どうしたのでしょうお医者様は……」
郁太郎は泣きじゃくってピクリピクリと身体《からだ》を動かすばかり。やはり眼を見開いて、母親の面を睨んでいます。
ちょうど有明《ありあけ》の月がこの窓からは蔭になりますけれども、月の光は江川の本邸の内の土蔵の棟《むね》に浴びかかって、その反射で見た我が子の面が、この世の人のようには見えなかったので、
「坊や、みんな母さんが悪かったのだよ」
こう言って涙をハラハラと郁太郎の面に落しました。
医者も竜之助もまだ来る様子はないのに、お浜はしかと郁太郎を抱えたなり、その窓際《まどぎわ》に立ちつくしているのでありました。
九
昨夜の騒ぎで机竜之助は少し寝過ごしていると、
「あなた、あなた」
枕許《まくらもと》を揺り動かすのはお浜の声。
頭を上げて見ると、日はカンカンとして障子にうつる老梅の影。
「こんなお手紙が」
「ナニ、手紙が……」
竜之助、何心なく受取って見ると意外にも逆封《
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