《ごしんぞ》、ここが抜け道の茶屋で」
 威勢よく店前《みせさき》へ着いた一|挺《ちょう》の駕籠《かご》、垂《たれ》を上げると一人の女。
「お浜!」
 竜之助は僅かにその名を歯の外には洩《も》らさなかったけれども、この女の名が浜でなければ不思議である。それとも竜之助の眼には、すべての女の面《かお》がお浜のそれに見えるのかも知れません。
「駕籠屋さん、どうも御苦労さま」
 竜之助は眼をつぶってその姿を見まいとした、耳を抑えてその声を聞くまいとした。あれもこれも生き写し。
 女は駕籠から出て、
「駕籠屋さん、どうも御苦労さま」
と言いながら帯の間を探ってみて、ハッと面の色を変え、慌《あわただ》しく懐《ふところ》や袂《たもと》に手を入れて、
「まあどうしましょう、ちょっと駕籠の中を」
 隅々《すみずみ》を調べてみて当惑の色はいよいよ深く、
「駕籠屋さん、済みませんけれど」
 二人の駕籠屋は突立ったなり、左右から女の様子をながめていたが、
「何だえ御新造」
「連れの人がほどなくこれへ見えますから、少しのあいだ待っていて下さいな」
「待っていろとおっしゃるのは?」
「たしかに持っていたはずの紙入《かみいれ》が見えませぬ故」
「何だ、紙入がねえと?」
 女の面をジロジロと見て、傍《かたわら》に敷き放してあった蓙《ござ》の上に尻を乗せたのは、この宿では滅多《めった》に見かけないが桑名《くわな》から参宮の道あたりへかけてはかなりに知られた黒坂という悪《わる》でしたから、茶店の老爺は気を揉《も》んでいると、
「そいつは大変だ、紛失物《なくなりもの》をそのままにしておいたんじゃあ、この黒坂の面《かお》が立たねえ、悪くすると雲助《くもすけ》仲間の名折れになるのだ、なあ相棒《あいぼう》」
「うん、そうだ」
「それじゃあ、もういちばん駕籠に乗っておもれえ申して、お前様に頼まれたところからここへ来るまでの道を、もう一ぺんようく見きわめた上、宿役《しゅくやく》へお届け申すとしよう。相棒、時の災難だ、もう一肩《ひとかた》貸してくんねえ」
「合点《がってん》だ」
「ああもし、それほどのものではありませぬ、ホンの僅かばかりですから……どうも困りましたねえ」
「お前さんも困るだろうが、こっちも商売の疵《きず》になる、さあ、どうかお乗りなすっておくんなさい」
 手を取って無理にも駕籠へ押し込もうとするから、
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