く眼を醒《さま》して「それ見ろ」と叱《しか》ります。
 竜之助は夜中になると、きっと魘《うな》されます。
 お浜はいま夫の魘される声に夢を破られて、夫の寝相《ねぞう》を見ると何とも言えず物すごいのであります。凄《すさま》じい唸《うな》りと歯を噛《か》む音、夜《よ》更《ふ》けての中に悪魔の笑うようにも聞えます。お浜はぞくぞくと寒気《さむけ》がして、郁太郎を乳の傍へひたと抱き寄せて、夜具をかぶろうとして、ふと仏壇の方を見ました。竜之助夫婦は仏壇などを持たないのですから、これは前に住んだ人がこしらえ残しておいたものです。奥には阿弥陀《あみだ》様か何かが煤《すす》けた表装のままで蜘蛛《くも》の巣に包まれてござるほどのところで、別にお浜の思い出になるものがこの仏壇の中にあるはずもないのですが、このとき仏壇がガタガタと鳴っています。それとても不思議はない、鼠が中で荒《あば》れ廻っているからです。
 それでもあまりにその音が仰山《ぎょうさん》なので、お浜は、
「しっ!」
 嚇《おどか》してみました。
 それで鼠の音はハタと止まるには止まったが、やがてバタバタと飛び出した大鼠、お浜の直ぐ枕許《まくらもと》へ落ちました。お浜は驚いて枕を上げて打とうとすると、度を失うた鼠は、お浜の乳房と、ちょうど抱いて寝ていた郁太郎の面《かお》の間へ飛びかかったのであります。
「あれ!」
 お浜は狼狽《ろうばい》して払いのけようとする。いよいよ度を失うた鼠は、お浜の腹の方へ飛び込みました。
「あれあれ」
 お浜は寝床からはね起きます。その途端《とたん》に鼠はポンと郁太郎の面の上へ落ちかかると、郁太郎は火のつくように泣き出します。
「おお、坊や、坊や」
 お浜は急いで郁太郎を抱き起す。鼠はその間に襖《ふすま》を伝わって天井の隅《すみ》の壁のくずれの穴へ入ってしまいましたが、郁太郎の泣き声は五臓から絞《しぼ》り出すようです。
「おお、よいよい、鼠は行ってしまった」
 お浜は抱きすかして乳房を含めようとすると、その乳房の背に一痕《いっこん》の血。
「あなた、お起きあそばせ、大変でございます」
 お浜は片手には泣き叫ぶ郁太郎を抱《かか》えて、片手を伸べて無二無三《むにむさん》に竜之助を突き起します。
「何事だ」
 眼をさました竜之助。郁太郎の泣き声にも驚かされたが、自分の身体《からだ》の手の触るるところが、水
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