ったその翌朝のことです。沢井から三里離れた青梅の町の裏宿《うらじゅく》の尋常の百姓家の中で、
「おじさん、昨夜《ゆうべ》はどこへ行ったの」
炉の火を火箸《ひばし》で掻《か》きながら、真黒な鍋で何か煮ていた女の子、これは先日、大菩薩峠で救われた巡礼の少女でありましたが、おじさんと呼ばれた人はまだ寝床の中に横たわっていたが、ひょいと首をもたげて、
「ナニ、どこへも行きはしないよ」
その面《かお》を見れば、これはかの峠で火を焚《た》いて猿を逐《お》い、この巡礼の少女を助けた旅の人でありました。
「でも夜中に目がさめると、おじさんの姿が見えなかったものを」
こう言われて主人は横を向いて、
「ああそれは、雨が降ると困るので裏の山から薪《たきぎ》を運んでおいたのだ」
「そう」
と言って少女は得心《とくしん》したが、
「おじさん、それでは今日お江戸へつれて行って下さるの」
たずねてみたが、直ぐに返事がないので、せがんでは悪かろうと思うたのか、そのままにして仏壇の方にふいと目がつくと、
「お線香をモ一本上げましょう」
たったいま上げた線香が長く煙を引いているのに、また新しい線香に火をつけて、口の中で念仏を唱《とな》え、
「お爺《じい》さん、わたしが大きくなったらば、きっと仇《かたき》を討ちますからね」
独言《ひとりごと》を言っている間に眼が曇ってくる。寝床の中で一ぷくつけていた主人はそれを見とがめて、
「お松坊、ちょっとここへおいで」
女の子は横を向いて、そっと眼の縁《ふち》を払い、
「はい」
主人の前に跪《かしこ》まると、
「おまえは口癖に敵々《かたきかたき》というが、それはいけないよ、敵討《かたきうち》ということは侍《さむらい》の子のすることで、お前なんぞは念仏をしてお爺さんの後生《ごしょう》を願っておればよいのだ」
「でもおじさん、あんまり口惜《くや》しいもの」
また横を向いて、溢《あふ》るる涙を払います。
「口惜しい口惜しいがお爺さんの後生の障《さわ》りになるといけない。あ、それはそうと、お前を今日はお江戸へつれて行くはずであったが、私は少し怪我《けが》をしてな」
「エッ、怪我を!」
「ナニ、大した事じゃねえ、昨夜《ゆうべ》それ、薪を運ぶとって転《ころ》んで腰を木の根にぶっつけたのだよ、二日もしたら癒《なお》るだろう、江戸行きはもう少し延ばしておくれ」
「お江戸なんぞはいつでもようござんす、早くその怪我を癒して下さい」
「そ言ってくれると有難い。それでな、お松坊、お前に預けておきてえものが一つある」
主人は蒲団《ふとん》の下を探って取り出したのが、錦《にしき》の袋に入れた短刀ようのもの。
「おじさん、これは何」
「何でもよい、これから大事に懐中へ入れて持っておいで、決して人に見せてはいけないよ」
「これは短刀ではないの」
「うむ、そうだ、用心に肌身《はだみ》をはなさず持っておいで、そのうちにはわかることがあるからな」
少女は何だか合点《がてん》がゆきません。ようよう寝床を這《は》い出したこの家の主人はかなりの怪我と覚しく、跛足《びっこ》を引き引き炉の傍までやって来て少女と二人で朝飯を食べていると、
「七兵衛さん、七兵衛さん」
表口で呼ぶ。ここの主人の名は七兵衛というのであるらしい。
「これは嘉右衛門《かえもん》さん、朝っぱらからどちらへ」
「なに、ちっと見舞に行こうかと思って」
「お見舞に? どこへ」
「まだお聞きなさらねえか、材木屋の藤三郎さんが今朝早く上げられなすって」
「材木屋のあの藤三郎さんが?」
「そうだよ、お役所へ上げられてお調べの最中《さいちゅう》だよ」
「それはまあ、どうしたわけで」
「何だかわしもよくは知らねえが、盗賊のかかわり合いだということでがす」
「盗賊のかかり合い?」
七兵衛は思わず小首を傾けながら、
「あの正直な人が盗賊のかかり合いとは、おかしいことですね」
「この間、甲州の上野原のお陣屋へ盗賊が入ったそうで」
「ナニ、上野原のお陣屋へ?」
「そうですよ、お陣屋へ入るとはずいぶん度胸のいい泥棒ですね。ところが泊り合せたお武家に見つけられて、その泥棒が逃げ出したが、その時に泥棒が書付《かきつけ》を一本お座敷へ落したそうで、そいつを拾われちまった」
「書付を拾われた?」
七兵衛は思わず自分のふところを撫《な》でてみる。
「それからね、どうしたものやらその書付が藤三郎さんところの材木売渡しの受取証文で、ちゃんと印形《いんぎょう》まで据《す》わっている」
「それはとんだ災難、私もお見舞に上らなくては済みませんが、昨晩少しばかり怪我をしたものだから、お前さんからよろしく申しておいておくんなさい」
「怪我をなすった?」
「なあに、大したことはありません、山でころんで腰をちっとばかり強く打っただけのことで」
「そりゃいけねえ、まあ大切にした方がいい、それじゃ行って来ますから」
嘉右衛門が立去ったあとで、七兵衛はなんと考え直したか、
「お松坊、今から江戸へ行こうや」
「でも、おじさんお怪我は?」
「なあに、馬も駕籠《かご》もあらあな」
「嬉《うれ》しいこと」
お松は大欣《おおよろこ》びで食事もそこそこ、はや手の廻りの用意をします。
十
今日は五月の五日、御岳山上へ関八州《かんはっしゅう》の武術者が集まって奉納試合を為すべき日であります。
机竜之助はこの朝、縁側《えんがわ》に立って山を見上げると、真黒な杉が満山の緑の中に天を刺して立っているところに、一むらの雲がかかって、八州の平野に響き渡れよとばかり山上で打ち鳴らす大太鼓の音は、その雲間より洩れて落ちます。
「ああよい天気」
白い雲の山にかかる時は、かえって五月晴《さつきば》れの空の色を鮮《あざ》やかにします。
「奉納日和《ほうのうびより》でござりまするな」
門弟連ははや準備をととのえてそこへやって来ました。
竜之助も身仕度をして、いつぞや大菩薩峠の上で生胴《いきどう》を試《ため》してその切味《きれあじ》に覚えのある武蔵太郎安国の鍛《きた》えた業物《わざもの》を横たえて、門弟下男ら都合《つごう》三人を引きつれて、いざ出立《しゅったつ》の間際《まぎわ》へ、思いがけなく駈け込んで来たのは水車番の与八でありました。
「若先生、今この手紙をお前様に渡してくれと頼まれた」
与八の手には一封の手紙、受取って見ると意外にも女文字《おんなもじ》。
「お山の太鼓が鳴り渡る朝までに解け」と脅《おど》したあの謎《なぞ》の、これが心か。
竜之助は忙《せわ》しいうちに、くりかえしてこの手紙を読みました。
十一
この日、宇津木文之丞もまた夙《つと》に起きて衣服を改め、武運を神に祈りて後、妻のお浜を己《おの》が居間に招いて、
「浜、誰もおらぬか」
人を嫌った気色《けしき》は別段に改まって、愁《うれ》いと決心とが現われている。
「誰も見えませぬ」
「ちと改まってそなたに申し置くことがあるぞ」
「それは何でござりましょう」
「今日の門出《かどで》に、これをそなたに遣《つか》わします」
机の上なるまだ墨の香の新しい一封の書状、お浜は不審顔《ふしんがお》に手に取って見ますと、意外にもこれは離縁状、俗にいう三行半《みくだりはん》でありましたから、
「これは私に下さる離縁状、どうしてまあ」
呆気《あっけ》に取られて夫の面《おもて》をみつめていましたが、開き直って、
「お戯《たわむ》れも過ぎましょう。何の咎《とが》で私が去状《さりじょう》いただきまする」
「問わず語らず、黙って別るるがお互いのためであろう」
「まあ、何がどうしたことやら、仔細《しさい》も聞かずに去状もらいましたと親許《おやもと》へ戻る女がありましょうか、お戯れにも程がありまする」
「浜、この文之丞が為すことがそちには戯れと見えるか、そなたの胸に思い当ることはないか」
「思い当ることとおっしゃるは……」
「言うまいと思えど言わでは事が済まず。そなたは過ぐる夜、机竜之助が手込《てごめ》に遭《あ》って帰ったな」
「エッ、竜之助殿に手込?」
「隠すより現わるる。下男の久作が行方《ゆくえ》と言い、その夜のそなたが素振《そぶり》、訝《いぶか》しい限りと思うていたが、人の噂《うわさ》で思い当った」
「人の噂? 人がなんと申しました」
お浜は嚇《かっ》となり、
「あられもない噂を言いがかりに私を逐《お》い出しなさる御所存か。さほどお邪魔ならば……」
「おお邪魔である、家名にも武名にも邪魔者であればこそ、この去状を遣《つか》わします」
「口惜《くや》しいッ」
お浜は、どうするつもりか夫の脇差《わきざし》を奪い取ろうとするのを、文之丞はとんと突き返したから、殆んど仰向《あおむ》けにそこに倒れました。それを見向きもせず、文之丞は奥の間へ立ってしまいます。夫にこう仕向けられて今更お浜が口惜しがるわけはないはずです、文之丞がもしも一倍|肯《き》かぬ気象《きしょう》であったなら、お浜の首を打ち落して竜之助の家に切り込むほどの騒ぎも起し兼ねまじきものをです。少し気が鎮《しず》まってから、お浜がよくよく考え直したら、ここで離縁を取ったのが結局自分の解放を喜ぶことになるのかも知れない、しかし問題はここを去ってどこへ行くかです、甲州へは帰れもすまい、どこへ落着いて誰を頼る――お浜の頭はまだそこまで行っていないので、ただ無暗《むやみ》に口惜しい口惜しいで伏《ふ》しつ転《まろ》びつ憤《いきどお》り泣いているのです。
宇津木文之丞はその間に、すっかり仕度をととのえて、用意の駕籠《かご》に乗り、たった一人で、これはワザと門弟衆へも告げずに、こっそりと御岳山をさして急がせます。
和田村から山の麓までは三里。文之丞は禊橋《みそぎばし》の滝茶屋で駕籠を捨て、小腋《こわき》には袋に入れた木剣をかかえ、編笠越しに人目を避けるようにして上って行きます。上って二十四丁目の黒門、ここへ来ると鼻の先に本山の頂《いただき》が円く肥《こ》えて、一帯に真黒な大杉を被《かぶ》り、その間から青葉若葉が威勢よく盛《も》り上って、その下蔭では鶯《うぐいす》の鳴く音が聞えます。振返れば山々の打重なった尾根《おね》と谷間の外《はず》れには、関八州の平野の一角が見えて、その先は茫々《ぼうぼう》と雲に霞《かす》んでいる。文之丞はしばしここに彳《たたず》んでいると、黒門|側《わき》の掛茶屋《かけぢゃや》で、
「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」
女の呼び声に応じて茶屋に入り、腰掛で茶を呑《の》みながら、ふと傍《かたえ》を見ると、茶屋から崖《がけ》の方へ架《か》け出した妙に捻《ひね》った庵室まがいの小屋に、髯《ひげ》の真白なひとりの老人が、じっとこちらを見ています。老人の前には机があって、算木筮竹《さんぎぜいちく》が置いてある。
「易《えき》を立てて進《しん》ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」
老人はこう申しますのを、文之丞は首を振って見せた、老人は再び勧《すす》めようともしません。
おりから坂の下より上って来たのは、かの机竜之助の一行で、同じくこの茶屋の前で立ち止まりました。
「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」
「休んで行こうかな」
竜之助が先に立って、一行を引きつれて、この黒門の茶屋へ入ります。宇津木文之丞は何気《なにげ》なく入って来た人を見ると、それは自分の当の相手、机竜之助でありましたから、ハッと気色《けしき》ばんだが、幸いに編笠《あみがさ》を被って隅の方にいたので、先方ではそれと気がつかぬ様子。
先刻の老人はまた首を突き出して竜之助の方に向い、
「易を立てて進ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」
竜之助は老人の面を見て頼むとばかり頷《うなず》くと、老人は筮竹《ぜいちく》を取り上げて、
「そもそも愚老の易断《えきだん》は、下世話《げせわ》に申す当るも八卦《はっけ》当らぬも八卦の看板通り、世間の八卦見のようにきっと
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