近く寄って見て、
「おやおや、人が斬られている!」
少女を掻き分け死骸《しがい》へ手をかけ、その斬口《きりくち》を検《しら》べて見て、
「よく斬ったなあ、これだけの腕前をもってる奴《やつ》が、またなんだってこんな年寄を手にかけたろう」
旅人は歎息して何をか暫らく思案していたが、やがて少女を慰め励まして、ハキハキと老爺の屍骸を押片づけ、少女を自分の背に負うて、七ツ下《さが》りの陽《ひ》を後ろにし、大菩薩峠をずんずんと武州路の方へ下りて行きます。
四
大菩薩峠を下りて東へ十二三里、武州の御岳山《みたけさん》と多摩川を隔てて向き合ったところに、柚《ゆず》のよく実る沢井という村があります。この村へ入ると誰の眼にもつくのは、山を負うて、冠木門《かぶきもん》の左右に長蛇《ちょうだ》の如く走る白壁に黒い腰をつけた塀《へい》と、それを越した入母屋風《いりもやふう》の大屋根であって、これが机竜之助《つくえりゅうのすけ》の邸宅であります。
机の家は相馬《そうま》の系統を引き、名に聞えた家柄であるが、それよりもいま世間に知られているのは、門を入ると左手に、九歩と五歩とに建てられた道場であります。いつでもこの道場に武者修行の五人や十人ゴロゴロしていないことはないのでありましたが、今日はまた話がやかましい。
「お聞きなされましたか、昨日とやら大菩薩に辻斬《つじぎり》があったそうにござります」
「ナニ、大菩薩に辻斬が……」
「年とった巡礼が一人、生胴《いきどう》をものの見事にやられたと甲州から来た人の専《もっぱ》らの噂《うわさ》でござりまする」
「やれやれ年寄の巡礼が、無残《むざん》なことじゃ」
「近頃の盗人沙汰《ぬすびとざた》と言い、またしても辻斬、物騒千万《ぶっそうせんばん》なことでございますな」
「左様《さよう》、なにしろこの街道筋《かいどうすじ》は申すに及ばず、秩父《ちちぶ》、熊谷《くまがや》から上州、野州へかけて毎日のように盗人沙汰、それでやり口がみな同じようなやり口ということでございます」
「いかにも。それほどの盗賊に罪人は一人もあがらぬとは、八州の腹切《はらきり》ものだ」
「それにしても、この沢井村|界隈《かいわい》に限って、盗賊もなければ辻斬もない、これというも、つまり沢井道場の余徳でありますな」
沢井道場で門弟食客連がこんな噂をしているのは、前段大菩薩峠の殺人の翌々日のことでありました。
「さて、道具無しの一本」
「心得たり、若先生の型《かた》を」
門弟二人が左右に分れると、
「沢井道場|名代《なだい》の音無《おとな》しの勝負」
口上《こうじょう》まがいで叫ぶ者がある。
沢井道場音無しの勝負というのは、ここの若先生、すなわち机竜之助が一流の剣術ぶりを、そのころ剣客仲間の呼|慣《なら》わしで、竹刀《しない》にあれ木剣にあれ、一足一刀の青眼に構えたまま、我が刀に相手の刀をちっとも触《さわ》らせず、二寸三寸と離れて、敵の出る頭《かしら》、出る頭を、或いは打ち、或いは突く、自流他流と敵の強弱に拘《かかわ》らず、机竜之助が相手に向う筆法はいつでもこれで、一試合のうち一度も竹刀の音を立てさせないで終ることもあります。机竜之助の音無しの太刀先《たちさき》に向っては、いずれの剣客も手古摺《てこず》らぬはない、竜之助はこれによって負けたことは一度もないのであります。
その型をいま二人は熱心にやっていると、おりから道場の入口とは斜めに向った玄関のところで、
「頼む」
中では返事がない。
「頼みましょう」
まだ誰も返答をするものがない。そのうちに、こちらの立合《たちあい》は、一方が焦《じ》れて小手《こて》を打ちに来るのを、得たりと一方が竹刀を頭にのせて勝負です。
「お頼み申します」
勝負が終えて気がついた門弟連が、こちらから無遠慮《ぶえんりょ》に首を突き出して見ると、お供の男を一人つれて、見事に装《よそお》うた若い婦人の影が植込の間からちらりと見えました。
「拙者《せっしゃ》が応対して参ろう」
いま立合をして負けた方のが、道場から母屋《おもや》へつづいた廊下をスタスタと稽古着《けいこぎ》に袴《はかま》のままで出てゆくと、
「安藤さん、若い女子《おなご》のお客と見たら臆面《おくめん》なしに応対にお出かけなすった」
皆々笑っていると、
「ドーレ」
安藤の太い声。ややあって女の優《やさ》しい声で、
「あの、手前は和田の宇津木文之丞《うつきぶんのじょう》が妹にござりまする、竜之助様にお目通りを願いとう存じまして」
「ハハ左様《さよう》でござるか」
姿は見えないけれども、安藤がしゃちほこばった様子が手に取るようです。
「その若先生はな」
いよいよ安藤は四角ばって、
「ただいま御不在でござるが」
「竜之助様はお留守《るす》……」
女はハタと当惑したらしく、
「左様ならば、いつごろお帰りでございましょうか」
「さればさ、うちの若先生のことでござるから、いつ帰るとお請合《うけあ》いも致し兼ぬるで……」
「遅くとも今宵《こよい》はお帰りでございましょう」
「それがその、今申す通り、いつ帰るとお請合いを致し兼ぬるが、次第によりては拙者ども御用向を承り置きまして」
安藤と来客の若い婦人との問答を道場の連中は面白がって洩《も》れ聞いておりましたが、
「若先生に直談判《じかだんぱん》というて美しい女子《おなご》が乗り込んで来た、前代未聞《ぜんだいみもん》の道場荒し」
「見届けて参りましょうか」
自《みずか》ら薦《すす》めて斥候《ものみ》の役を承ろうとする者がある。
「賛成賛成、裏口から廻って見て参られい」
ますます御苦労さまな話で、まもなくあたふたと走《は》せ戻《もど》って、
「見届けて参りました、確《たし》かに見届けて参りました」
息を切っての御注進《ごちゅうしん》です。
「どのような女子じゃ」
「あれは和田の宇津木文之丞様の奥様でござりまする、しかも評判の美人で……」
「ナニ、和田の宇津木の細君《さいくん》か、さいぜん妹だというたではないか」
「いいえ、お妹御ではございませぬ、まだ内縁でございまして甲州の八幡《やわた》村からついこの間お越しのお方、発明で、美人で、お里がお金持で評判もの、私は、八幡におりました時分から、篤《とく》とお見かけ申しました」
「文之丞の細君が何故に妹と名乗って当家の若先生を訪ねて来たか、それが解《げ》せぬ」
「あ、若先生のお帰り」
無駄口がパタリとやんで、見れば門をサッサッと歩み入る人は、思いきや、一昨日、大菩薩の上で巡礼を斬った武士――しかも、なり[#「なり」に傍点]もふり[#「ふり」に傍点]もその時のままで。
五
竜之助の前には、宇津木の妹という、島田に振袖《ふりそで》を着て、緋縮緬《ひぢりめん》の間着《あいぎ》、鶸色繻子《ひわいろじゅす》の帯、引締まった着こなしで、年は十八九の、やや才気ばしった美人が、しおらしげに坐っています。
「お浜どのとやら、御用の筋《すじ》は?」
竜之助の問いかけたのを待って、
「今日、兄を差置き折入ってお願いに上りましたは」
歳にはませた口上《こうじょう》ぶりで、
「ほかでもござりませぬ、五日の日の御岳山《みたけさん》の大試合のことにつきまして……」
竜之助もいま帰って、その組状を見たばかりのところでした。そうして机の上に置かれた長い奉書の紙に眼を落すと、女は言葉を継《つ》いで、
「その儀につきまして、兄はことごとく心を痛め、食ものどへは通らず、夜も眠られぬ有様でござりまする故、妹として見るに忍びませぬ」
「大事の試合なれば、そのお心づかいも御尤《ごもっと》もに存じ申す、我等とても油断なく」
素気《すげ》なき答え方。女は少し焦《せ》き込んで、
「いえいえ、兄は到底《とうてい》あなた様の敵ではござりませぬ、同じ逸見《へんみ》の道場で腕を磨いたとは申せ、竜之助殿と我等とは段違いと、つねづね兄も申しておりまする。人もあろうに、そのあなた様に晴れのお相手とは何たること、兄の身が不憫《ふびん》でなりませぬ」
「これは早まったお言葉、逸見先生の道場にて我等如きは破門同様の身の上なれど、文之丞殿は師の覚えめでたく、甲源一刀流《こうげんいっとうりゅう》の正統はこの人に伝わるべしとさえ望みをかけらるるに」
「人がなんと申しましょうとも、兄はあなた様の太刀先《たちさき》に刃向《はむか》う腕はないと、このように申し切っておりまする」
「それは御謙遜《ごけんそん》でござろう」
竜之助は木彫《きぼり》の像を置いたようにキチンと坐って、面《かお》の筋《すじ》一つ動かさず、色は例の通り蒼白《あおじろ》いくらいで、一言《ひとこと》ものを言っては直ぐに唇を固く結んでしまいます。女はようやく躍起《やっき》となるような調子で、頬にも紅《べに》がさし、眼も少しかがやいてきたが、
「もしもこのたびの試合に恥辱を取りますれば、兄の身はもとより、宇津木一家の破滅でござりまする。ここを汲み分けて、今年限り、兄が身をお立て下さるよう、あなた様のお情けにすがりたく、これまで推参《すいさん》致しました、なにとぞ兄の身をお立て下されまして」
女は涙をはらりと落して、竜之助の前にがっくりと結立《ゆいた》ての髪を揺《ゆる》がしての歎願です。
竜之助は眼を落して、しばらく女の姿をみつめておりましたが、
「これはまた大仰《おおぎょう》な。試合は真剣の争いにあらず、勝負は時の運なれば、勝ったりとて負けたりとて、恥《はじ》でも誉《ほまれ》でもござるまい、まして一家の破滅などとは合点《がてん》なり難《がた》き」
冷《ひや》やかな返事です。
女が再び面をあげた時、涙に輝いた眼と、情に熱した頬とは、一方《ひとかた》ならぬ色香《いろか》を添えつ、
「何もかも打明けて申し上げますれば、兄はこのたびの試合済み次第に、さる諸侯へ指南役に召抱《めしかか》えらるる約束定まり、なおその時には婚礼の儀も兼ねて披露《ひろう》を致す心組みでおりましたところ……」
「それは重ねがさね慶《めで》たきこと、左様ならばなお以て試合に充分の腕をお示しあらば、出世のためにも縁談にも、この上なき誉を添ゆるものではござらぬか」
「それが折悪《おりあ》しく……いや時も時とてあなた様のお相手に割当てられ、勝ちたいにもその望みはなく、逃げましてはなお以て面目立ちませぬ。ただ願うところはあなた様のお慈悲、武士の情けにて勝負をお預かり置き下さらば生々《しょうじょう》の御恩に存じまする。兄のため、宇津木一家のために、差出《さしで》がましくも折入ってのお願いでござりまする」
この女の言うことがまことならば、いじらしいところがあります。兄のため、家のためを思うて、女の一心でこれまで説きに来たものとあれば、その心根《こころね》に対しても、武士道の情けとやらで、花を持たして帰すべきはずの竜之助の立場でありましょう。ところが、蒼白《あおじろ》い面《かお》がいよいよ蒼白く見えるばかりで、
「お浜どのとやら、そなた様を文之丞殿お妹御と知るは今日《こんにち》が初めながら、兄を思い家を思う御心底、感じ入りました。されど、武道の試合はまた格別」
格別! と言い切って、口をまた固く結んだその余音《よいん》が何物を以ても動かせない強さに響きましたので、いまさらに女は狼狽《ろうばい》して、
「左様《さよう》ならば、あの、お聞入れは……」
声もはずむのを、竜之助は物の数ともせぬらしく、
「剣を取って向う時は、親もなく子もなく、弟子も師匠もない、入魂《じっこん》の友達とても、試合とあれば不倶戴天《ふぐたいてん》の敵と心得て立合う、それがこの竜之助の武道の覚悟でござる」
竜之助はこういう一刻《いっこく》なことを平気で言ってのける、これは今日に限ったことではない、常々この覚悟で稽古もし試合もしているのですから、竜之助にとっては、あたりまえの言葉をあたりまえに言い出したに過ぎないが、女は戦慄《みぶるい》するほどに怖れたので、
「それはあまりお強
前へ
次へ
全15ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング