だけのことで」
「そりゃいけねえ、まあ大切にした方がいい、それじゃ行って来ますから」
嘉右衛門が立去ったあとで、七兵衛はなんと考え直したか、
「お松坊、今から江戸へ行こうや」
「でも、おじさんお怪我は?」
「なあに、馬も駕籠《かご》もあらあな」
「嬉《うれ》しいこと」
お松は大欣《おおよろこ》びで食事もそこそこ、はや手の廻りの用意をします。
十
今日は五月の五日、御岳山上へ関八州《かんはっしゅう》の武術者が集まって奉納試合を為すべき日であります。
机竜之助はこの朝、縁側《えんがわ》に立って山を見上げると、真黒な杉が満山の緑の中に天を刺して立っているところに、一むらの雲がかかって、八州の平野に響き渡れよとばかり山上で打ち鳴らす大太鼓の音は、その雲間より洩れて落ちます。
「ああよい天気」
白い雲の山にかかる時は、かえって五月晴《さつきば》れの空の色を鮮《あざ》やかにします。
「奉納日和《ほうのうびより》でござりまするな」
門弟連ははや準備をととのえてそこへやって来ました。
竜之助も身仕度をして、いつぞや大菩薩峠の上で生胴《いきどう》を試《ため》してその切
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