)を買いに八王子まで行って来ました」
「八王子へ?」
 主人が眼を白黒《しろくろ》したのも道理で、八王子までは六里からあります。昨夜いつごろ金を盗んだかわからないが、それから往復十二里の道を子供のくせに平気で歩いて来たと聞いただけで、胆《きも》をつぶす価値《ねうち》が充分あるのです。
「こういう奴は末が怖ろしい、勝手に出て行け」
 それで主人の家をお払《はら》い箱《ばこ》になってしまいました。
 それからの七兵衛は自分の家へ帰ってコツコツと少しの畑を耕したり、賃雇いに出たりして暮していたが、その後、世話をする者があって隣村から嫁《よめ》を貰った、この嫁が尻の軽い女で、初めから男があったとかなかったとかいう者もあったが、ようよう一人の男の子を生むと、女房の姿が見えなくなった、近所の人は男と駈落《かけおち》をしたものだろうと言っています。
 子供を一人残されて女房に逃げられた時は、七兵衛も大分弱ったようでしたが、その後、子供は里へ預けて来たと言って、それからは一人で暮して、昼は山稼《やまかせ》ぎ畑稼ぎをして、夜になっては大概早く戸を締めて人とも交際しません。七兵衛は固くなった固くなり過ぎたと、人々は評判をしておりましたけれど、実はこの時分から、持って生れた泥棒癖《どろぼうへき》が再び萌《きざ》しはじめたものです。
 昼のうちは克明《こくめい》に働いて、夜分になると戸を締め切っておいて盗みに出かけます。盗みは決して近いところではしない、上州とか甲州とか数十里を隔てたところへ行っては盗んで来て、その暁方《あけがた》までに青梅へ帰って、昼はまたなにくわぬ面で山稼ぎ畑打ちです。それで盗んだ金は名も現わさず散らしてしまう、女狂い賭博狂《ばくちぐる》いをするでもなければ身の廻りを飾るでもないから、誰も怪《あやし》むものがない、それでいよいよ捕われるまでは七兵衛の大罪を知るものはなかったわけです。

         二十一

 竜之助の父|弾正《だんじょう》の枕元に、宇津木兵馬と与八とが坐っております。
「兵馬殿、せっかく剣術を修行なさるなら正しい剣術を修行なされよ」
 弾正は言葉を改めてこう言い出しました。
 憎い敵《かたき》の家、竜之助の父、兵馬はこう思い込んで来たものの、事実、弾正に会うて見れば、その病気に対する同情と、寸分の隔《へだ》てなく慈愛を以て自分を訓戒する真心《まごころ》に動かされてしまったのです。それで神妙に膝に手を置いて弾正の言うところを聞いていると、
「あの竜之助がよい見せしめ、あれも初めは見込みのある剣術であった、わしも最初のうちは欣《よろこ》んでいたが、わしが病気になって以来、すっかり術が堕《お》ちてしまったでな」
「術が堕ちたとおっしゃるのは」
「何も知らぬ者は竜之助がメキメキ腕を上げたと評判するげな。わしが眼で見れば日増しに術が堕ちてゆく。ああ残念な、この身が丈夫であったらあの腕を叩《たた》き直してやろうものをと思わぬ日はなかったが、何を言うにもこの不自由で、みすみす倅《せがれ》を邪道に落した」
 弾正の眼からは竜之助の剣術の進歩を進歩と見ないので、
「あのような剣術が今日《こんにち》の仕儀《しぎ》になるは眼に見えたものじゃ、わしはもう世に望みのない身体《からだ》、兵馬殿、どうか拙者になり代って竜之助を懲《こ》らして下さい」
 弾正は疲れを休めて後、
「とは言え、今の其許《そこもと》では、いかに心が逸《はや》っても竜之助の向うに立つことはおぼつかない、ようござるか、修行が肝腎《かんじん》じゃ」
「修行します、立派に修行しませいでか」
「ああよいお覚悟じゃ。時に、正しい修行には正しい師匠を取らねばならぬ……わしがその正しい剣道の師匠を其許に推薦《すいせん》する、その人について修行なさるがよい」
 弾正が推薦する正しき剣道の師とは何者か。
「下谷の御徒町《おかちまち》に島田虎之助という先生がある、流儀は直心陰《じきしんかげ》、拙者が若いうちからの懇意《こんい》で、今でも折々は消息《たより》をする、この人はまさに剣道の師たるべき達人じゃ」
「島田虎之助先生、お名前も承わったように覚えまする」
「上泉伊勢守の正統を伝えたものは当代にこの人であろう」
 己《おの》れが子竜之助の剣道を邪道と罵《ののし》るにひきかえて、島田虎之助を弾正が推薦することは極度であります。
「正しい代りに修行が厳《きび》しい――厳しい修行で弟子が少ない、もと名聞《みょうもん》を好む性質でないから世間からは多く知られていないが、わしとは若い頃から気が合うてよく交《まじ》わった――せっかく剣道を学ぶならこの人に就いて学びなされ」
 弾正の話の中には、別におのずから見識があって、兵馬にはよくわからないながら、この老人が尋常の人と思えない、もしこんな病気に
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