になった、その前後に福岡日日新聞で是非あれの続稿を欲しいという交渉が同社の営業部主任たる原田徳次郎君からあったのである、福岡日日へはその前後二三の連載小説を書いたことがあった、そこで原田君の懇望があった時に我輩も考えた、福岡日日新聞という新聞は地方新聞ではあるがなかなか立派な新聞である、新聞格に於ては当時の東京の一流新聞に比べても劣らない、新聞格としては都新聞などよりも上だといってもよろしい、その位の新聞だから、新聞に不足はないけれども、どうも都下の読者でまた後を読みたいという読者が多分にあるのである、どうか東京の読者に読ませるようにしたいものだと思わないことはなかったし、その当時東京朝日新聞などは大いに我輩に目星をつけていたのであるが、妙なことから行き違いになってしまった(この顛末はあとで委しく書く)、しかし、福日が向うからそういう懇望であって見ると、こちらも漸く決心して遂に原田君と約束だけはしてしまって一回の原稿料その時分は八円(これもその当時としてはなかなかいい値であった)ということまで先方の申出で決まってしまったと覚えている。
そうしているうちに、どういう処から聞きつけたのか、どうして知れたのか、その事は今記憶に無い、或いは小生から出所進退を明かにする為に一応その旨を通告したのかとも考えられるが、兎に角それが松岡君の耳に入ると、松岡君が小生の処へ飛んで来た、ここは松岡君のいいところで、その時分余輩は本郷の根津にいたが、そこへ松岡君が飛んで来て、
「大菩薩峠が他新聞に連載されるとのことだが、これは以ての外のことだ、第一あれほどの作物をあちらこちらへ移動させることは作物に対する礼儀ではないし、色々の事情は兎も角も、発祥地としての都新聞が存在している、殊に友人としての自分が、新聞経営の責任ある地位に在《あ》り、貴君としても他へ身売りをするような調子になっても困る、都新聞としても他へやることは不面目である、どうか君と我との友人としての意気に於て他新聞へ掲載することは見合せて貰いたい、そうしてやる以上は我が都新聞で自分が責任を持つから同一条件の下に引続いてやってくれ、頼む」
というようなわけであった、松岡君も斯ういう処はなかなかいい肌合があるので、我輩もその意気には泣かされるものがあった、しかし福日との契約が最早や厳として成立しているのである、それを飜すことは出来ない、いや、それは何とでも、若《も》し貴君の方から云い難《に》くければこちらから言葉を尽して掛合ってもよろしい、というようなわけで、到頭我輩も松岡君の意気に動かされて、では小生からも一つ福日へ申訳をして見ようということになった、そこで福日でも原田君が他の新聞なら兎に角最初の発祥地である都新聞からの希望では已《や》むを得ないというようなことで、福日も存外分ってくれて話が纏《まとま》って、それからまた社外にあって都新聞の為に書き出すことになった。
それは今の何の巻のどの辺からであったか記憶しないが、相当に続けて行く、松岡君も自分の責任上福日と同一条件で無限に続けてもよろしい、という意気組であったのだが、扨《さ》て進んで行くうちに社中でまた問題が起ったらしい、原稿料が高いとか安いとかいうこともあったろうし、また、無限に続くというようなものを背負い込んでも仕方がないではないかというような苦情もあったろうし、また内容その他に就いても随分批難か中傷かも出て来たらしい、余輩は出社しないからその辺の空気には直接触れなかったが、かなり社中の荷厄介にはなっていたらしく、さりとて松岡君は面目としてどうも社中の空気が困るから見合せてくれとは云ってこられなかろうと思われる、そこは我輩もよき汐合《しおあい》を見てと思っているうち新聞の方でとうとう堪え切れず、編輯氏の山本移山君が直接に余輩の処へやって来た、山本君は我々や松岡君より先輩で今も都新聞の編輯総長として重きをなしている人だが、同氏も何か堪え切れないものがあったと見えて、当時余輩は早稲田鶴巻町の瑞穂館という下宿屋(これは小生が買い受けて普請をして親戚に貸して置いたもの)の隅っこにいたのであるが、そこへ山本移山君がやって来て、どうか一つ止めて貰いたいという膝詰談判だ。
そこで余輩は云った、それは松岡君との約束もあるが、小生はそんな約束を楯にとって、ゴテようとは思わないが、何しろプツリと切ることは読んでいてくれる人の為に不忠実である、何でもたしか年の暮まで僅かの一月以内かの日数であったと思うが、ではそれまで書きましょう、そうして中止するにしても相当のくくりをつけて読者にうっちゃりを食わせるような行き方でないように仕末をつけて止めようではないかもう二三十回の処でたしかその年が終える、一月早々別の小説を載せるということは都新聞で幾らも例のあったことであるから、そうしたらどうかという提案を持ち出したが、山本君は、それはどうも困る、自分の立場としては今直ぐに止めて貰いたいという云い分であった、山本君も決して分らない人ではないが、詰り社中の空気が如何に大菩薩峠連載に好感を持っていなかったかという、その力に余儀なくされたものであろうと思う。
そこで余輩は直ちに答えた、そういうわけならば決して私は要求しません、即時に止めましょう、斯ういう話合で山本君は帰ったのだが、その時に帰り間際に山本君も、しかしまた他の新聞から交渉でもあった時は、都新聞の方へ知らせて貰いたいという希望を一言云われたが、その時小生は、それはお約束は出来ますまい、と云った。
右のような次第で、こんどは本当に都新聞と絶縁をしてしまったのだ、その時までは都新聞の方でも絶えず新聞も送っていてくれたが、それが済むと新聞の寄贈も無くなり、こちらも辞退した、つまり松岡君との交渉を山本君が代って清算してくれたのだ、小生としては松岡君の面《かお》も立て、都新聞への情誼も尽したつもりでいる、この上他の新聞から交渉がありましたが如何ですかあなたの方はというようなことを云ってやることの出来る筈のものではない、そこで都新聞と大菩薩峠との交渉は一切清算されてしまったのである。
さてそれから幾程を経て、東京日日と大阪毎日新聞との交渉になるのである。
底本:「中里介山全集第二十巻」筑摩書房
1972(昭和47)年7月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2004年6月15日作成
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