及神田家の整理がつけばまた神田君を営業主として守り立って行ける時が来るだろう、そうすれば充分の保証を立てて神田君に引き渡し自分はまた専ら読書創作の人に帰る――と考えていた、こちらには誠意を持ってした仕事なのだが、先方の譲り渡しに大きなワナが仕かけられていたのである、我々は生一本《きいっぽん》に引受けてしまってから、そのワナに引懸ったのである、それが為に事業は最大級に悪化してしまった、先方は本来譲り渡す気はなかったのである、一時の急の為に表面上譲り渡すことにしていたが、譲り渡しはしても譲り渡された素人《しろうと》の吾々が当然進゛に窮するような仕組みのワナが拵えられていたのだ、吾々としてはそこまで神田君側が窮迫したり計画したりするほどならば、何故もっと端的にその事情を打ち明けてくれなかったのか、その事情を打ち明けてくれさえすれば、我々と雖《いえど》も貧弱ながら一肌でも二肌でも脱げない筈はなかったろうと思う、それをそうしないで一時譲り渡して忽《たちま》ちばったり引っかかるワナを設けて置き反間苦肉の策がこしらえてあろうとは全く思いもかけなかった、普通の場合ならばこのワナに引っかかって忽ち参ってしまったかも知れないが、然し吾々はそのワナに引っかかりつつ今強引にそのワナを振り切って進みつつある、我々は最初から生一本だから策も略も無いが、この禍根は今後も相当にうるさく残るだろう、いろいろに形式を変えて我々の事業を妨害し大菩薩峠の今後の出版史に陰に陽に動揺を与えることと思う、神田君が、たとえ窮余とは云いながら、貧すれば鈍するという行き方に出でず、誠意を打ち割ってさえ呉れたなら斯ういう結果にはなるまいと怨むより外は無いが、併し今となっては神田君の誠意をどうしても買うことが出来ない、争うだけ争わねば納るまい事態に落ち込んでしまったが、二十年来提携した間柄として何という荒涼悲惨な事実だろう、併し信仰によらないで利による以上は合うも離れるも争うも闘うも是非なき浮世かも知れない、大菩薩峠の信仰を知らずして、その利益得分をのみ思う時には、当然行き詰まり叩き合うの結果が予想される、今後とても、我々は、幾多のワナや落し穴や流れ矢を受け流しつつ大乗菩薩道の為に進んで行かなければならない悲壮の行程は充分覚悟して居らねばなるまい。
とは云え、この悲壮なる我々の健闘が決して悲愴なる結果をのみ生むものでは無く、前人の未だ曾《かつ》て夢想しなかったほどの大果報もおのずからその間に生れて来ないとも限らないのである。
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中里生|曰《いわ》く
この「生前身後」のことは最初から小生の心覚えを忙がしい中で走り書をしていて貰うのだから、中には事実に相当訂正すべきところもあり、月日に多少の錯誤もあり不明なところもあるだろうと思う、いずれは書物にまとめて出版する時に十分訂正して責任ある書物にしたいと思うが、但し故意に事実を誤ったり誣《し》いたりすることは決してない、その辺を御承知の上で御一読を願いたい。(後略)
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大菩薩峠新聞掲載史
時節柄、大菩薩峠と新聞掲載の歴史に就いて思い出話を語って見よう。
大菩薩峠の胚芽《はいが》は余が幼少時代から存していた処であるが、その構想は明治の末であり、そのはじめて発表されたのは大正―年―月―日の都新聞に始まるのである。
当時余は都新聞の一社員であった、都新聞へ入社したのは当時の主筆田川大吉郎氏に拾われたので、新聞の持主は楠本正敏|男《だん》であり、余が二十二歳の時であった。
田川氏が余輩を拾ったのは、小説家として採用するつもりではなく、寧《むし》ろ同氏の政治的社会的方面に助力の出来るように、養成されるつもりであったかも知れないが、頑鈍な小生は甚だ融通が利かなくってその方へ向かなかった、今ならば田川さんを助けて政治界へも進出するような余裕もあったかもしれないが、其の当時は、生活と精進とに一杯で、あたら田川さんの期待に背《そむ》いてしまったらしい。
そうして偶然にも予想外の小説の方面に進出し、まあ、相当の成功を見るようになったのは、社中の誰も彼もが皆んな一奇とするところであったが、その辺のことも書けば長いから略するとして、さて、大菩薩峠を右のような年月に於て始めて発表したのであるが、作の著手といえばもっと古いのだが発表は右の通り、余が二十九歳の時である、当時余は都新聞の一記者として働いていて傍ら小説を書いたのである、小説を書くと多少の特別の手当があり、小説の著作権から来るところの興行の収入、それから※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵木版付で地方新聞へ転載掲載料等の別収入もあったものである、併し余は演劇映画の上演はその頃から絶対謝絶していたから小説を書いたからといって特に目醒《めざま》しい収入というのは無かったのである。
その書き出しの間もない頃に、伊原青々園君の紹介で、或る本屋から一回一円ずつで買いたいがという交渉があったことを覚えている、当時としては一回一円は却々《なかなか》よい相場であったらしい、大抵新聞小説などは赤本式に売り飛ばしてしまったらしい、黒岩涙香氏の如きもその探偵小説の版権は無料で何か情誼のある本屋に呉れてしまったというような有様であった。
併し余は別に考うるところがあったから、興行物も絶対に謝絶し版権も売るようなことをせず、またみだりに出版を焦《あせ》るようなことをしなかった。
そうしているうちに百回前後で一きりに切り上げるのを例とした、最初の時に与八がお浜の遺髪を携えて故郷へ帰るあたりで切った時分には読者から愛惜の声が耳に響くほど聞えたようである、しかし新聞は自分の持ちものではなし、いろいろ後を書く人の兼合も考えなければならないから、或る適度で止めるのが賢こい仕方であったのである、そうしているうちにまた次の小説が出たり引込んだりする合間を見ては続稿の筆を執ったのだが、あんまりすんなりとは行かなかった、社中でも奨励するものもあり、内心嫌がっているものもあり、どうもそれは已《や》むを得ないことだと思った、それに我輩が誰れが何といって来ても芝居や映画等に同意しなかったものだから、新聞社の景気の為にもその自我を相当に煙たがっていた者もあったようだが、小生はこの小説は長く続く、或は古今|未曾有《みぞう》の長篇になるだろうという腹はその当時から決めていた。
当時の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵は第一回から通じて井川洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]君の筆であった、甚だ稀に数える程洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]君が入営するとか、病気とかいう時に門下の人が筆を執ることもあった、洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]君も社員の一員として専ら小説の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵を担当し、第一回三回とも毎日二つ描いていた、当時新聞の小説は都でなければならないように思われ、また新聞の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵は洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]でなければならぬように世間向きにはもてはやされたものだ、前に云う通り、小生は小説家出身でないから、最初の時などは大いに洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]君の絵に引立てられたものだ、追々洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]君の絵とは釣合わないものがあるという事を批評する人があり、寧ろ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵なしで行ったらどうかというような意見を述べてくれた人もあったが、兎に角都に於ける十年間ほど洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]君と終始して少しも問題は起らなかった。
それから程経て余輩は都新聞を去らねばならぬ時が来た、それは何でも大正八九年の頃であったと思う、前社長楠本正敏男は新たに下野《しもつけ》の実業家福田英助君に社を譲り渡してしまった、これは主筆田川大吉郎氏が洋行中のことであった。
この変遷によって、田川氏は無論都新聞を退社した、小生も退社した。
楠本男がさ様に早急に新聞社を手離したというのは、社運が振わないという意味ではなかった、余が在社時代を通じての都新聞は経済状態に於ては東京の新聞中屈指のものであって、「時事」か「都」かと云われたものであるが、「都」はその読者の大部分が東京市中にあって、収入が確実で、経営の安定していることは他の新聞の羨望の的であった、その新聞を楠本男が急に手離すようになったのは、年漸く老い社務も倦《う》んで来たせいであろうと思われる、福田氏に譲り渡しの間を周旋したものは松岡俊三君であった。
松岡君は今は山形県選出の政友会の代議士となっているが都へ入社したのは余と同時であった、当時余は二十二歳、松岡君は二十八歳小生はくすぶった小学校教員上り、松岡君は紅顔の美男子であった、そのうち松岡君は市政方面から政治界へ進出する機会を作ったが、小生は不相変《あいかわらず》都新聞の第一面の編輯でくすぶっていたのだ、そのうち松岡君は政友会へ入り込んだ、これは市政記者として出入している間に森久保系や何かと懇意なものが出来たせいもあるだろう、余輩もまた同君の政界進出を推奨して、とてもやる以上は寧ろ政友会へ入ったらよかろうと薦めたこともある、しかし、都新聞という新聞はその歴史に於て決して政友系ではあり得ない、先代楠本正敏男が改進系であり、その後の社長も蘆高朗氏も三菱と縁戚関係があり、今の主筆田川氏は大隈系の秀才であり、田川主筆の次席大谷誠夫君は一時円城寺天山あたりと改進党党報の記者をしていたこともあり、編輯氏の山本移山君また四国に於て進歩系の有力家の家に生れた人であったと記憶する、そこを松岡君が政友会の人となり、星亨《ほしとおる》の追弔文などを書き出したものだから、大谷君が激怒したことがあったように記憶する、つまり松岡君は大谷君が紹介して入社させ、自分が影日向《かげひなた》になって育てたのに、怨《うら》み重なる政友系の方へ寝返りを打たれたので憤激したものであろうと思っている。
松岡君はそういう才物であったし、それに男っぷりがいいものだから、先輩に可愛がられる特徴をもっていて、随分金を融通することに妙を得ていた、その松岡君が周旋して都新聞を足利の実業家福田英助氏に買わせた。
そうして福田君を社長にして自分が先輩を乗り越えて副社長の地位に坐り込んで、その勢で選挙に出馬して首尾よく代議士の議席を齎《か》ち得た、無論政友系として下野の鹿沼あたりから出馬したが、その背景には横田千之助がいたと思われる、松岡と横田との交渉は何処から始まったか知れないが、松岡は大いに横田をつかまえていたらしかった、それと同時に都新聞の背後にも横田系即ち政友系が大いに進出して来た模様であった、しかし社中は従来の歴史を重んじて都新聞を政友系とすることには極力反対していたようであった、これには横田の勢力も松岡の才気も施す術《すべ》が無かったようだ、しかし小生としては此度の社の変遷にも何か重大な責任の一部分がありそうな気がしてたまらないからその何れにも関せず、ここで清算しなければならぬと考えたから、当時松岡君がわざわざやって来て是非若いものだけであの新聞をやりたいから踏み止まってくれと説得して来たのは必ずしも儀礼ばかりではない事実上、若いものを主として主力を政友系に置いて大いに発展して見るつもりであったろうと思う、しかし余は全く辞退して前社長楠本男、前主筆田川氏に殉じたとは云わないが、その時代で一時期を画して後任者の経営のもとには全く関係のない身となった、松岡君も我輩の意を諒してその清算に同意してくれた。
そこでたぶん十一年間ばかりの間であったろうと思うが、都新聞と余輩との縁は全く断たれてしまったのだ。
そこで大菩薩峠の続稿の進退に就いても当然独立したこと
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