なことは問題にならず、そこでとうとう原著者自身に脚色して貰うより外はないということになって原著者自身が筆を取って脚色したのが白揚社から出版になった小冊子脚本全四幕のものであった。
 ところが、その時は昼夜二回の非常時興行で、時間の組合せの上から二幕しか出せないということになった、しかもその二幕も間《あい》の山《やま》だの大湊《おおみなと》の船小屋だのいい処は除いて久能山と徳間峠しか出せないことになったから、ほんのお景物という程度に過ぎなかった。
 左団次君とは紅葉館の前後、小生が左団次君の招待ということで、麻布の大和田で鰻《うなぎ》の御馳走になりながら木村錦花君川尻君あたりと話をした、そうしてどうやら斯うやら本郷座のタッタ二幕の上演を見るに至ったが、右のように間の山や船小屋のいい処が出ないで、比較的見すぼらしい二場所が出たのだが、あの時に松蔦君あたりに間の山のお君をさせ、左団次君に大湊船小屋の場を出させでもすれば同じ二幕でもずっと勝れた効果があったであろうが、余り効果が出ては困る人があったに相違ない、然し、左団次君の竜之助はたったあれだけでもなかなかの貫禄を見せ、その後病気で亡くなったが中村鶴蔵君のがんりきなども素敵な出来であって、昼夜二回興行のうち昼の部分はこの大菩薩峠と他に従来の歌舞伎劇が三幕ばかり、夜は菊池寛君のエノクアーデンを焼き直したようなものと、その以前に余輩が書いた黒谷夜話の中味によく似たところがあるという谷崎潤一郎君の「無明と愛染」というような新作を並べたものであったが、昼の方が興行的に断然優勢を示していたのは矢張り大菩薩峠の贔負《ひいき》が相当力をなしていたものと思われる。
 震災当時はそんなようなわけで、劇場らしい劇場は全部焼失してしまったのだから、随分異例のことが多く、麻布の十番あたりの或る小屋へ少々手入れをしてそこを仮りに明治座と名付けて左団次一座を出演させたようなこともあったが、然し本格的にはこの本郷座が東京震災復活の第一の大劇場であったが、その後今日では本郷座も活動小屋に変化してしまって歴史ある名残《なご》りはもうすっかり見られなくなってしまった。
 さあ、劇と我とに就ては、まだ細かい事は幾らもあるし、これより田中智学翁斡旋の帝劇興行をはじめ、歌舞伎、東劇、明治座の最近にまで及ぶのだが、それは追って稿を改めて述べる事とし、次号には全く別の方面の人物論から着手しようと思う。

     同時代の人と我

 余輩と同時代の人物のうち、今年即ち余輩の五十歳を標準として少くとも同時代の空気を呼吸した人で、今日は歴史的になっている人だけを挙げて、将来歴史的になるべき人でも現存して居られる分ははぶき度いと思う。
 右の意味に於て私と同時代の世界の最大の偉人はトルストイであったと云って宜かろう、これは特に自分が文学に多少縁故のあるところから見た、ひが[#「ひが」に傍点]目ではなく、有ゆる方面を通じて、これを歴史に照してトルストイの偉大さは卓絶している、全世界の全人類史を通じて仮りに五人十人の偉人を挙げて見たところでトルストイの偉大さは矢張りそのうちから外れることのない程の大きさを持っている、十九世紀から二十世紀へかけて世界がこの偉人を持っていたということに大きな光彩を有している、この人は千八百二十八年に生れて千九百十年余が二十六歳の時にこの世を去った。
 それから文学に於てこれに劣らぬ全世紀有数の文豪としてビクトルユーゴーがまた明治十八年まで(即ち余の生れた年)生きていた、現に日本人でもこの偉人に目のあたり面会した人がある、板垣退助伯爵の如きは慥《たし》かにその一人である、余は知人原氏の紹介をもって板垣伯に面会しユーゴーの印象に就いて聞いて置きたいつもりで電話までかけたがつい果さずいるうちに板垣伯は亡くなられた。
 余が親しく風※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》を見た人物のうちでは救世軍の開祖ウイリヤムブース大将を以て最大不朽なる人物とする、日本へ来戦された当時東京座に於てブース大将の演説会が開かれた時、余も新聞記者の末席に控えて親しくその風采に接しその演説を終りまで聞いた、その時東京市長であった尾崎行雄氏が挨拶をし、島田三郎氏も何か話をしたと思うが両君共に甚だ背のひくい感じをしたが、今の山室中将その時は少佐位であったかしら、これが通訳を承ったが、これは実に両々相待って火花の散るような壮観を呈したのを覚えている、長身偉躯にして白髪白髯慈眼人を射るブース大将の飾らざる雄弁を引き受けて短躯小身なる山室軍平氏が息をもつかせずに火花を散らした通訳振りは言語に絶したる美事さであったと覚えている。
 別の方面でこれ等のレベルに立つ偉人はまずトーマスエディソンであろう、この人は昭和五年余が四十六歳の時にこの世を去った。
 それから政治家としてはグラドストン、ジスレリー、ルーズベルト、といったような人があり、芸術家方面ではロダンだのイブセンだのという人があるが、これは歴史的価値に於て前の人達とは大分に遜色があるようだ。
 日本に於ては不世出の聖主明治大帝には蔭ながらにも親しく御俤を仰いだことの一度もないのは明治生れの自分として甚だ残念な次第である、それだけ自分の境遇というものが恵まれなかったのである。
 それから明治の功臣としても日常写真顔で、もう別人ではない程に馴染《なじ》んでいながら親しく風※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]を見たことも極めて乏しい、板垣伯は余輩が小学校時代自由党の総理として我が郷里へ鮎漁に来たのか招いたのか――したことがある、その時に政客や有志家達が夥しく押し寄せて来た中に板垣伯がナポレオン式のヘルメットのような帽子を被《かぶ》り、鮎漁の仮小屋に腰をかけ瘠《や》せたからだに長い髯《ひげ》を動かして周囲の者を相手に頻りに話しをしていたのを覚えている、件《くだん》の帽子を被っていたから人相はよく分らなかった。
 それから、伊藤博文公は韓国統監時代に李王世子のお伴《とも》をしてであったか、なかったか三越へ馬車(自動車ではなかったと思う)を乗りつけてそこから簡単に統監服のままで馬車へ乗り降りする処だけを見た、これも細かな表情などは少しも覚えていない、哈爾賓《ハルピン》で亡くなったのはそれから間もないことであった、それから原敬氏はこれも馬車であったか――たぶん箱馬車と思う――白髪に和服で悠然と納まり込んで走らせるのを見たし、都新聞の幹部会の時三縁亭の別室で一方には政友会の代議士総会があり、一方の別室に原敬と高橋|是清《これきよ》と野田卯太郎の三人が額を突き合せて話をしているのを見たことがある。
 軍人として、日本歴史上の名将東郷平八郎元帥の俤《おもかげ》をすら親しくは余は一度も見たことがない、乃木大将は或時士官学校の前から四谷の方へ出る処、荒木町であったか、あそこを通りかかった時にひょこひょこと質朴な老軍人が坂を上って来ると思ってよく見たらそれが乃木将軍であった、後ろに人力車を引き連れていたかと思う。
 明治、大正へかけての史上の大物としては余は目のあたり見たのは殆んどその位のものである、いやそれから大隈伯の演説は二三回聞いたことがある、山県公《やまがたこう》は無論見ない、併し、好き嫌いという感情から云えば、世間に大いに好かれ人気の盛んであった大隈侯よりは、世間から悪く云われた山県公の方が自分は遙かに好きであった、なお、序《ついで》に云えば、山県系の嫡子として、やはり世間からビリケン呼ばわりをされて人気の乏しかった寺内元帥なども、自分は甚だ好きな人物の一人である、どうして好きかと問われると、何等の理由も事情も無いようなものだが、曾《かつ》て新聞にいて、ある部面を受持っていた時分、非常に些細と思われることであっても、事軍紀に関するような事ある時は、当時、陸軍大臣であった寺内氏は、必ず副官をして、それを説明或いは訂正をなさしめたものだ、それは必ずや副官達に心ある者があってするので無く大臣自身が、いかに新聞の隅までも眼を通して、そうして、細事をも粗末にはしないという用心が働いていることを、余は認めて、寺内さんという人はエライ、世間は非立憲だの長閥軍閥の申し子だのと悪評で充ちているけれども、なかなかそんな横暴一片の人ではないと、感心して、ひそかに寺内信者の一人になっていたまでの事だ。
 同じような意味で平田東助氏(後に伯爵)の事も云える、平田氏も不人気な政治家ではあったが、余輩はその人を信じていた、平田氏の方では一向、余輩の事は知るまいが、余輩が預かっていた新聞のある部面の記事を、平田氏が内相であった時分に、激称した事があって、それが為に同僚の記者が大いに面目を施して来たというような事を帰社して話した事があった、その後、平田氏は所謂世間には不人気で烟《けむ》たがられたけれども、その後、漸く堅実な人気を以て、遂には大久保卿以来の内務大臣だとまで云われるようにもなった、余輩が他事《よそごと》ながら弁護した点に、世間は平田氏が村長格の性器であって、報徳宗を鼓吹したりすることは、一代の空気を陰化せしめてよろしくないという様な世論に反して、みだりに政客的放慢心を以て小器大善を論ずるのは宜しくない、苟《いやしく》も政治家が思想信念を以って世を導かんとするは大いに尊敬もし認識もしなければならぬという様の事を論じたのであったと思う。
 少々混線するが少し前に戻って、余輩の生れた明治十八年という年に、ビクトルユーゴーが死んだのも奇縁と云わば云える、余の生れは四月四日で、ユーゴーの死んだのは五月二十二日だから何かの因縁を結びつけるには相当の時間である、余輩を以て日本の馬琴に比するものはあるが、それは当を失している、余には作家としての系統も師匠も無いが、もし有りとすればトルストイではなくユーゴーを挙げなければならぬ、ユーゴー以来の作家ということが不遜ならば、ユーゴーがわが文学の師ということは云えるかも知れない。
 またこの年は、日本で三菱の岩崎弥太郎が死んでいる、弥太郎の弟の弥之助というのは余が本名と同じことだが、これは我輩の父の名が弥十郎という弥の名を取ったものではあるが、一つには余の父が日本一の富豪にあやからせようと思って、岩崎弥之助の名を取ったのである、そうして写真で見ると岩崎弥太郎の顔が如何にも我輩によく似ていると評する者がある、斯ういう因縁から見立てると、我輩はユーゴーほどの人物になり、同時に岩崎ほどの金持にならねば申訳の立たぬ理窟にはなるだろう。
 英国のジョンラスキンの死んだのは明治二十三年で、丁度余輩が六歳にして初めて小学校へ入学した年であって、この時日本に於ては教育勅語が降下された年である、星亨《ほしとおる》の殺されたのと、福沢諭吉の死んだのは明治三十四年余が十七歳の時であった、トルストイの死んだ年即ち明治四十三年、余が二十六歳の時に本郷座で「高野の義人」を上演したのである。
 三十前の時であったか、熱海の今は無くなっているが、山田屋という宿屋に暫く滞在していたが、その時隣室に八十にもなろうという色の白い小づくりなおじいさんがいて、朝から晩まで殆んど座敷へ籠《こも》りきりで非常におとなしいものであったが、毎朝梯子段をのぼりおりして廊下を渡っては風呂場へ行く、女中などは、あのおじいさんはあのお年で誰も附添というては一人もなく、ああして逗留していなさるが、こちらも心配であります、というようなことを云った、余輩とはよく浴槽の中で一緒になりお互いに丁寧の挨拶をしたものだが、世間話などは少しもしなかった、或時女中にあのおじいさんはおとなしくて朝から晩まで一室に居られるが何をしているのかと訊ねると、何もしないでおとなしくしていられますが、袋の中から将棋の駒を出しては一人で並べて楽しんでいる様ですといった、その後或る機会に女中の持って来た宿帳を見ると右の老人の所に「小野五平」と記してあった、この老人は当時の将棋の名人小野五平翁であったのだ、間もなくこちらが先きであったか先方が先きであったか熱海
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