1−14−82]でなければならぬように世間向きにはもてはやされたものだ、前に云う通り、小生は小説家出身でないから、最初の時などは大いに洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]君の絵に引立てられたものだ、追々洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]君の絵とは釣合わないものがあるという事を批評する人があり、寧ろ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵なしで行ったらどうかというような意見を述べてくれた人もあったが、兎に角都に於ける十年間ほど洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]君と終始して少しも問題は起らなかった。
 それから程経て余輩は都新聞を去らねばならぬ時が来た、それは何でも大正八九年の頃であったと思う、前社長楠本正敏男は新たに下野《しもつけ》の実業家福田英助君に社を譲り渡してしまった、これは主筆田川大吉郎氏が洋行中のことであった。
 この変遷によって、田川氏は無論都新聞を退社した、小生も退社した。
 楠本男がさ様に早急に新聞社を手離したというのは、社運が振わないという意味ではなかった、余が在社時代を通じての都新聞は経済状態に於ては東京の
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