八日にはじめて封を切って読み下して見ると感慨無量なるものがある。
 我輩はこれほどに切なる沢田君の手紙をも封を切らずに十年間も放り出して置くような人間である、如何に自分が無情漢であるかということの証拠になるかもしれないが、この無情は持って生れた我輩の一つの特質なるを如何ともすることが出来ない、凡《およ》そ好かれたり、よろこばれたりするような親切は本当の親切ではない、本当の親切は大いに憎まれなければならない、大いに怨《うら》まれて憎まれるほどの親切でなければ骨にも身にもなるものではないという片意地が我輩には今日でもあるのである、彼の心の中の或ものを微塵に砕いてその後に来るものでなければ本当のものではない、然るにとうとうこの機会が到来しないで沢田は死んでしまった。
 彼の病気が愈々危篤の時余は東京にいなかったと思うが、余の家族のものは余に代って見舞の電報を打ったということだが、こちらは何の見舞もせず、また先方からも何とも挨拶はなかった。
 沢田が死ぬと新聞雑誌は非常なる報道をしたり記事で埋まったりしたけれども誰も一人も我輩のところへ沢田正二郎を聞きに来た新聞雑誌記者もなし、また聞きに来られ
前へ 次へ
全86ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング