、彼は京阪、九州地方まで無断興行をして歩いたり、ロクでもないレコードを取ったり、傍若無人の反抗振りを示したが、最後に根岸君の手から謝罪的文の一通を取り全く大菩薩峠から絶縁することになって(つまり沢田はもう決して大菩薩峠を演らない)という一札が出来上ってケリがついたのだ、その時に俵藤丈夫君が来て大いにたんかを切って行ったのも覚えている。
大菩薩峠を演らずとも沢田君並にその一党の人気はなかなか盛んのものであった、またいろいろの意味で沢田の人気へ拍車をかけるものが群っている、一時は沢田の外に役者は無いような景気であった、この人気を煽《あお》ることには相当の理由がある、沢正君は早稲田の出身であって、早稲田出身者は人気ものを作ることに於て独特の勢力をもっていると云われる、然し斯ういう勢力はその人を大成せしめずして寧《むし》ろこれを毒すること甚だしいものだと思っている、沢正以前に松井須磨子なるものがあってこれがまた非常な人気を煽られたもので須磨子の外に女優なしと思われるほどに騒がれた、しかし余輩はそれを見てあぶないものだと思った、松井須磨子は早稲田生えぬきの島村抱月の愛弟子《まなでし》である、一
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