の親しみも無かったけれどもこれ等の人の作物は皆相当に読ませられ感化も蒙《こうむ》っている、師事したり崇拝したりするという事はないが明治では右等の数名が最も傑出した文学者であると自分は認めている、そう/\徳富蘆花氏には二度ばかりお目にかかったことがある、俳句の方で内藤鳴雪翁は何かの折によく見かけたものだ、俳優で市川団十郎は見たといい切れないほどの印象であることを遺憾とする、先代菊五郎は見なかったが先代左団次は見た、新派では高田実が大いに傑出すると思っている、川上音次郎も見た――筈である。
落語家で聞いたもののうちでは橘家円喬が断然優れていた。
浪花節で桃中軒雲右衛門も芸風の大きいことに於てずば抜けていた、剣道で旧幕生残りの人で僅かに心貝忠篤氏の硬骨振りが目に止まっているばかり。画家では芳崖も雅邦も玉章も見知らない、危険人物としては、幸徳秋水と大いに議論をしたことがある、まあそういったようなもので、他にも随分偉い人も多かったけれども親しく見ることの機会も与えられず、また特に何等の縁故もなかった、人を知ることに於ても人に知られる事に於ても不相変《あいかわらず》自分は貧弱極まるものである、現在生きて居られる諸名士のうちにも随分不朽の人物がおいでになるに相違あるまいと思うが、これとても一度も親しくお目にかかったことのない方が多い。
大菩薩峠出版略史
それから同時代の史上の人物としては勝海舟《かつかいしゅう》がある、勝の死んだのは明治三十二年余が十五歳の時のことであった、無論親しくその人を見たことはないが、その頃出た「氷川清話」という本は愛読したもので、少年時代のこれ等の書によって受けたところの感化は少いものではなかった。
カールマルクスは余が生れる二年程前に死んでいる、ナイチンゲールとも青年時代までは同じ地球の空気を吸っていたことと思う、レニンもまた史上有数の人物だ。
相撲では梅ヶ谷、常陸山の晩年を国技館の土俵の前で見たことがある、年寄としての大砲も見た、然し国技館の本場所へは僅に一回行って見ただけで、その後は新聞見物に過ぎなかった、太刀山の全盛時代一度その武者振りを見たいとは思ったが進んで行こうという機会を作ることなくして終った、然し普通の姿での太刀山は屡々《しばしば》見た。
日本の漢詩学界の豪傑|森槐南《もりかいなん》が亡くなったのは余の二十七歳の時であった。
渋沢栄一翁の姿は時々見かけた、固《もと》よりこれも親しくは何の交渉も無いけれど、後にその令息の一人秀雄氏と帝劇の関係で知り合いになってから渋沢一家が大菩薩峠の熱心な愛読者であるということを聞いていた、老子爵も都新聞に連載時代から愛読して居られたような形蹟がある、これはまだ歴史の人ではないが岩崎小弥太男もまた都新聞時代から大菩薩の愛読者であったと想像の出来ない事もない。
明治天皇の御英姿を拝する機会は得られなかったが、大正天皇の行幸を拝したことは一二回ある。
さて、少くとも吾れと同じ世紀の間に生きていた因縁のある歴史的或は世間的に知名の方々に対しては略《ほぼ》右のようなものであり、尚多少の遺漏があるかも知れないが、それは追って思いつき次第補充するとして次には今日まで共にこの世界に生きて来た有縁無縁の人でさまで有名でもなく、歴史にも世間にも印象を残すのなんのという人ではなく最も平凡に生き平凡に死んだ人の思い出を一つ書いて置きたいのであるが、それはまた少し後廻しにして、この機会に昨今、最も身辺の問題となっている大菩薩峠の出版史というようなのを少し述べて置きたいと思う、それも細かく書くと容易ならぬものだからそれは後日の事として概略だけを書いて置きたい。
新聞に発表したことは別として、書物として初めてこれを世に出したのは大正―年―月―日玉流堂発行の和装日本紙本「甲源一刀流の巻」を最初とする。
今でこそ大菩薩には一々何の巻何の巻と名を与えているが、最初都新聞に連載した時は、この巻々の名は無かったものである、それをこの出版に際して第一冊に「甲源一刀流の巻」の名を与えたのが例になったのである、この初版の出版ぶりはかなり原始的なものであった、これより先き自分は弟に本郷の蓬莱町へ玉流堂というささやかな書店を開かせた、同時に自分は活字道楽をはじめた、この活字道楽というのは今日までも自分にとって一つの癌《がん》のようなもので、かなり苦しめられつつあって、容易に縁の切れない道楽の一つであるが、本来どうか自分は一つ印刷所を持ちたい、それは最少限度のものであってよろしい、兎に角半紙一枚刷りなりとも拵《こしら》えて、それを知己友人に配るだけの設備でもよいから欲しい、ということは兼ねての念願であった、そうしてまず築地の活版であったか秀英舎であったかの売店へ行って、一千字ば
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