相当の時間である、余輩を以て日本の馬琴に比するものはあるが、それは当を失している、余には作家としての系統も師匠も無いが、もし有りとすればトルストイではなくユーゴーを挙げなければならぬ、ユーゴー以来の作家ということが不遜ならば、ユーゴーがわが文学の師ということは云えるかも知れない。
 またこの年は、日本で三菱の岩崎弥太郎が死んでいる、弥太郎の弟の弥之助というのは余が本名と同じことだが、これは我輩の父の名が弥十郎という弥の名を取ったものではあるが、一つには余の父が日本一の富豪にあやからせようと思って、岩崎弥之助の名を取ったのである、そうして写真で見ると岩崎弥太郎の顔が如何にも我輩によく似ていると評する者がある、斯ういう因縁から見立てると、我輩はユーゴーほどの人物になり、同時に岩崎ほどの金持にならねば申訳の立たぬ理窟にはなるだろう。
 英国のジョンラスキンの死んだのは明治二十三年で、丁度余輩が六歳にして初めて小学校へ入学した年であって、この時日本に於ては教育勅語が降下された年である、星亨《ほしとおる》の殺されたのと、福沢諭吉の死んだのは明治三十四年余が十七歳の時であった、トルストイの死んだ年即ち明治四十三年、余が二十六歳の時に本郷座で「高野の義人」を上演したのである。
 三十前の時であったか、熱海の今は無くなっているが、山田屋という宿屋に暫く滞在していたが、その時隣室に八十にもなろうという色の白い小づくりなおじいさんがいて、朝から晩まで殆んど座敷へ籠《こも》りきりで非常におとなしいものであったが、毎朝梯子段をのぼりおりして廊下を渡っては風呂場へ行く、女中などは、あのおじいさんはあのお年で誰も附添というては一人もなく、ああして逗留していなさるが、こちらも心配であります、というようなことを云った、余輩とはよく浴槽の中で一緒になりお互いに丁寧の挨拶をしたものだが、世間話などは少しもしなかった、或時女中にあのおじいさんはおとなしくて朝から晩まで一室に居られるが何をしているのかと訊ねると、何もしないでおとなしくしていられますが、袋の中から将棋の駒を出しては一人で並べて楽しんでいる様ですといった、その後或る機会に女中の持って来た宿帳を見ると右の老人の所に「小野五平」と記してあった、この老人は当時の将棋の名人小野五平翁であったのだ、間もなくこちらが先きであったか先方が先きであったか熱海を引き揚げてしまった。
 後藤新平子を見たのも熱海であった、或晩散歩をしていると、書生に提灯《ちょうちん》を持たせて黒い長いマントを着た長身の男が一人坂の途中に立って海の方を眺めていたが、通りかかってよく見ると、それは新聞の写真顔で見覚えのある後藤――その時は子爵であった、またこの人は東京の帝劇の食堂などでも見かけたことがある、非常な政界の人気男であったが、晩年は振わなかった、しかし余輩ははじめからこの人は余り好きではなかった。
 犬養木堂は議会で見ただけであった、右掌を腮《あご》に、臂《ひじ》を卓上に左の手をズボンのかくしに突込んで、瘠《や》せこけたからだに眼を光らせて、馬鹿にしきった形で議会を見おろしていた処がなかなかよかった。
 それから全く風采を見ない人であるけれども、同時代在野の政治家として、星亨ほどの人物は無いと思う、しかし余は星が殺された時分には島田三郎の信者であって、島田の攻撃ぶりと伊庭《いば》の非常手段に非常なる共鳴をもっていたので、星の偉さが分ったのはずっと後のこと、実際政党人として一人をもって全藩閥を敵に廻して戦える度胸を備えた大物であったと思わずにはいられない、殊に政党の振わざる今日に於て星を思うこと痛切なるものがある、余の生れた三多摩地方は皆殆んど星の党であるのに、余は幼少より少しもそんな感化も影響も受けず、東京へ飛び出しても島田三郎等の説に共鳴して星を憎んだものだが、今日に至ると全く一変している。
 それから、学術界の方で出京早々十四五歳の時、加藤弘之博士の講演を聞いたことがある、所は帝国教育会の講堂、加藤博士は監獄教誨師問題について当時各宗教家間に軋轢《あつれき》があったことからこの際何の宗教にも属していない儒教の人を用いたらよかろうというような説であったと覚えている、その前席であったか後席であったか、片山潜氏の演説があったことを覚えている、片山氏の演説ではじめて自分は「ツラスト」という言葉を覚えた。
 さて、宗教界に於ては仏教の釈宗演《しゃくそうえん》、南天棒あたりの提唱は聞いた、キリスト教会では植村正久、内村鑑三あたりの先生とは親しく座談もし、数回教えも受けた。
 次は、文学界の方面だが、自分は尾崎紅葉も知らない、正岡子規も知らない、夏目漱石も知らない、樋口一葉も知らない、二葉亭四迷も知らない、国木田独歩も知らない、人間としては何等
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