いということに憧《こが》れて憧れ死にをしたような心中は、真に惜しいことであるが、この一枚の隔たりがとうとう彼には見破られないで亡くなったのだ。
 その当時彼に対して面会を避けたり要求懇請を突っぱねたりつれない挙動のみを見せた我輩に対し負けず嫌いの彼がどの位内心悲憤していたかということも想像出来るし、その悲憤に対して何も知らぬファンが一にも二にも彼に同情するの余り、我輩を悪《あし》ざまにした、我輩の蒙《こうむ》った不愉快も少々なものではなかった、当時、彼から来た手紙なども見ないで放っぽり出していたのだが、近頃或事件の必要から古い手紙類を整理したところ、一通の封の切らないやつが出て来た、今日これを書く機会に封を切って見よう。
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冠省
御無沙汰に打過ぎて居りまするがお変なき事と大慶に存じます。
扨て
いろ/\御無理を申して御煩せしてからもう三年に近くなります、小生が御音信をしたり、御訪ねをすると屹度《きつと》大人のお煩ひになることを恐れますが、でも小生の止むに止まれぬ願を更めてお胸にお止め下さいまし、あれからとても諦めねばならぬ事と押へ忘れ様とつとめて長い月日が立ちました、でも絶えず私の頭の中に往来するのをどうする事も出来ずに歯を喰ひしばつて我慢をして来ましたが、今年は私共新国劇も愈々満十周年を数へますので、いさゝか其紀[#「紀」に「(ママ)」の注記]念を致したいのでございます。
で其紀念興行(六月)を催すに何よりも吐[#「吐」に「(ママ)」の注記]胸を突いて来るものはお作大菩薩峠の事でございます。
私は過去の一切に就いてお心にそまなかつた事を更めて陳謝いたします。
どうぞ私共の苦闘十年にめでゝお作上演をお許容下さいまし。
只管《ひたすら》に願上ます。
これまでの行がかり上いろ/\な方面への責任等は総べてを私が背負ひまして御迷惑はかけますまひ、一度拝眉心からお願したいと存じて居ります。[#地から1字上げ]頓首
  三月十一日早朝
[#地から3字上げ]沢田正二郎
[#ここで字下げ終わり]

 この手紙の表書きには本所区向島須崎町八九番地とあって日附は三月十一日になっているが、年号はちょっとわからない、兎に角我輩が早稲田鶴巻町にいる時分使に持たせてよこしたので郵便ではなかったからスタンプもない、これを今T君に筆記をして貰っている今日、即ち昭和九年の六月十八日にはじめて封を切って読み下して見ると感慨無量なるものがある。
 我輩はこれほどに切なる沢田君の手紙をも封を切らずに十年間も放り出して置くような人間である、如何に自分が無情漢であるかということの証拠になるかもしれないが、この無情は持って生れた我輩の一つの特質なるを如何ともすることが出来ない、凡《およ》そ好かれたり、よろこばれたりするような親切は本当の親切ではない、本当の親切は大いに憎まれなければならない、大いに怨《うら》まれて憎まれるほどの親切でなければ骨にも身にもなるものではないという片意地が我輩には今日でもあるのである、彼の心の中の或ものを微塵に砕いてその後に来るものでなければ本当のものではない、然るにとうとうこの機会が到来しないで沢田は死んでしまった。
 彼の病気が愈々危篤の時余は東京にいなかったと思うが、余の家族のものは余に代って見舞の電報を打ったということだが、こちらは何の見舞もせず、また先方からも何とも挨拶はなかった。
 沢田が死ぬと新聞雑誌は非常なる報道をしたり記事で埋まったりしたけれども誰も一人も我輩のところへ沢田正二郎を聞きに来た新聞雑誌記者もなし、また聞きに来られても会って話をする時間があったかどうかわからない。
 何にしても好漢沢田、我輩と握手をする為に東を志して西を向いて歩いていた、好会のようでそうして生涯遂に相合わなかったが、今や間違っても間違わなくても彼ほどに強い憧れをこの作に持っていた俳優は無かったのだ、それを思うとさすがの無情漢も暗然として涙を呑むばかりだ。
 それから大震災の後、本郷座の復興第一興行に当って市川左団次君の一座でこの大菩薩峠を興行したことがある。
 その時余輩は高尾山に住んでいたのだが、そこへ松竹から川尻清譚君だの植木君だのという人が見えて左団次一座があれを演《や》りたいからとの申出であった、そうして脚色者としては菊池寛君に依頼したいとの先方からの希望つきで、菊池君も略《ほ》ぼ承知らしい口振りであった、それからもう一つ、こんどの本郷座復興は帝都に於ける大震災後の大劇場の復興としては最初のものである、本郷座といえば松竹が高野の義人を演って初めて当りをとった記念の意味もあるというようなわけで、この興行にはかなり松竹大谷君の意志も動いているのであった、第一左団次自身が果してあれを進んで演りたい意気込みがどの程度まであったか
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