体早稲田派が宣伝に巧みなのは大隈侯以来の伝統である、朝に失敗した大隈が野に下って、学校を立て言論界へ多くの人材を送った、そこで早稲田には筆の人が多いし、宣伝機関が自由になる、自然人気ものを作るのはお手のものといった景気がある、前の松井須磨子もそうであるし、今の沢正もそれだ、須磨子なども寄ってたかって高い処へ押し上げてしまってそうして梯子《はしご》を引いたような形だから、ああいう運命に落つるのも已《や》むを得ないのであった、今また沢正にも同じ轍《てつ》を踏ませるな、困ったものだと思いながら眺めていたが、然し彼の行動には我輩に対する見せつけとか当てつけとかいうものが絶えず隠然として流れていた、しかし、こっちはもう自分の作物が彼等の人気に関係しさえしなければそれでいいのだから済ましているうちに彼等自身も絶縁はしながらも絶えずこの大菩薩峠には憧《あこが》れをもち、世間もまたいつかそのうちに沢正によっての机竜之助が見られるものだということを期待していた。
 それは大震災前後の事であった、それ以前沢正の傍若無人な人気の増長振りが警視庁あたりでも睨《にら》まれていたようだ、なに警察の干渉などは人気になって却ってよろしいなどと放言していたこと等が甚だ当局の癪にさわっていたようである、そこで、公園劇場での賭博問題がきっかけとなって、彼等一党が総検挙をされたようであった、これで沢正一座も愈々没落かと思われた、これまでの彼の人気と増長ぶりについては喝采《かっさい》する者は絶えず喝采していたが、余輩から見ると、自暴《やけ》の盲動的勇気としか見えなかった、自暴で背水の陣を敷くと人間はなかなか強くもなれるし、また意外な好運も迎えに来るものだと思わしめられないでもないが、無理は無理だ、と我輩のみならず、心ある者は彼をあやぶみきっていたが、果してこの検挙で幕が下りた、これでさすがの驕慢児も往生だと世間は見ていたが、なかなか悪運(?)の強い彼にとって、この検挙拘留中に彼《か》の大震災で、これがまた彼にとって有利と好運とに展開されたのである。
 拘留中の沢田とその一党は大震災の為に放免された、それが機会でまた彼が復活して、どういう運動の結果か、復興第一に日比谷公園で大野外劇を演り、沢正が弁慶勧進帳で押し出すというような変態現象を現出してしまった、それから籾山《もみやま》半三郎君が出資者となって赤坂の演技座に大劇場としての仮普請をして、沢正の為に根城を拵《こしら》えてやったり、非常の景気であって、一代も彼を拍手喝采することで持ち切りであったが、あぶない事はいよいよあぶない、大菩薩峠に反いてからの後の沢田というものは全く意地と反抗とヤケとで暴れ廻っているのだ、何も知らない世間はその勇猛な奮闘振りだけを見て喝采するが我輩のように彼の大きくなったのも小さくなったのも内外の悩みも委細心得ているものにとっては、ああいう行き方が不憫で堪らなかった、といってなまじい同情を寄せて撚《よ》りを戻してはよろしくないに相違ない、我輩は頑として近寄ることをしなかったが、その間いろいろの方面からいろいろの意味で懇願したり、釈明したり謝罪的の表明をして来たり、籾山君なども自身幾度び我輩を口説《くど》きに来たかわからないし、沢田君も再々自身もやって来たしいろいろと好意を表したが我輩としてはどうしても作物の上で再び彼と見ゆることは絶対的に許されない事であったのだ。
 そのうちに、沢田があの通り若くして斃《たお》れることになってしまった、病名は中耳炎ということであったが、なあに中耳炎のことがあるものか、ああいう無理の行き方をすればまいって了《しま》うのはあたり前である、沢正なればこそあれだけにやったのだ、普通の人なら少くとも五年前に死んでいたのだ、その後は意地だけであそこまで通して来たのだ、中耳炎というのはその当座の病名だけのものだ、我輩から云わせれば社会の軽薄なる人気が寄ってたかって彼を虐殺してしまったのだ、丁度、松井須磨子を殺したように、また後の文士直木三十五と称するこれは素質から云っても程度から云っても須磨子や沢正に下ること数等のものだが、そんなような手合をすら稀《まれ》に見る天才かの如く持ち上げて、そうして過分の労力を消耗させて殆んど虐殺に等しい最期をさせた、余輩は斯ういう行き方を非常に嫌う、もし沢正にして他の人気やグループを悉《ことごと》く脱出しても真に大菩薩峠の作意を諒解し、我輩の忠言を聴き節を屈し己《おの》れを捨て、そうして磨きをかけたならばはじめて古今無類の立派な名優が出来上ったに相違ないと我輩は思う、世間の賞《ほ》めるのは彼の最も悪いところを賞めるのである、彼の最もよいと云われるところは我輩から見れば毫釐《ごうり》の差が天地の距りとなっている、彼が最後まで机竜之助を演りたい演りた
前へ 次へ
全22ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング