風を見届けに行って貰った、帰って来ての寺沢の報告は甚だよい、沢田は貫禄も相当あるし部下もよき一団を相当集めてある、演らして見たらよいと云う様な提案であったと覚えているそこで我輩は考えた、今や歌舞伎は新興の意気はなく、新派は沈衰して振わず、沢田君あたりを一つ起して東京劇壇に風雲を捲き起させるのも眠気|醒《ざま》しではないかという心持にまで進んで来たのだ、そのうちに沢田は我慢しきれず大阪で成功した意気込をもって東京へ旗揚げに来た、沢田としては最初に大菩薩峠をもって来たかったのだろうけれども我輩はまだ熟しないと見てその機会を与えなかった、そこで沢田は東京の旗揚げに多分明治座であったと思う、そこへ乗り込んで「カレーの市民」というのを最初に国定忠治を後に演ったと思っている、なかなかよく演った、ちょっと類のない芸風もあるし覇気もあるし、殊に国定忠治の中気の場、召捕の場の刀を抜かんとして抜き得ざる焦燥の形などは却々《なかなか》うまいものであった、ただ芸風に誇張と臭味とが多少つき纏っていることは素人《しろうと》出身として無理もないと思われる位のものであった、併しこの一座存外によく演りは演るが、東京の芝居見物には殆んど全く馴染《なじみ》が無い、そこで客足の薄いことは全く気の毒でもあり、会社の女工と覚しいようなのを大挙入場させたりして穴埋をするような景気であったり、十数人の見物しか土間にいなかったりというようなこともあった、その帰り途に横浜でやった時の如きは四五人の見物しか数えられない有様でてれ隠しにテニスか何かをやって誤魔化したというような事実話もある、然しこれは彼及び彼一座の恥でもなければ外聞でもない、如何に相当の実力がありとはいえ顔馴染の無い土地へ来ての全く素人出の旗揚げでは無理のないことでもあるそうして大阪へ帰ったが、次に東京へ乗り出すには是非とも別の看板が必要である、いや別の看板がなければ再びは乗り出せないのだ、如何に乗り出したくても興行主が承知する筈《はず》はなかったのだ、そこで沢田は第二回の出戦に当り蝠獅e峠著者を衝《つ》くこと甚だ激しいのは当然の成り行きである、一体大菩薩峠というものが掲載当時からそういう一種の人気を持っていた外に、都新聞という新聞が当時は東京市中へ第一等に売れる新聞であり、演芸界花柳界には圧倒的の勢力を持っていたのである。
 こちらは大菩薩峠の著者、相当沢田に対する予備認識も出来たし芸風も眼のあたり特色も看《み》て取っているしその実力に相応して顔馴染の少ない立場にいることに同情も持って居りまたこれを拉《らっ》し来って東京劇壇の眼を醒さしてやろうというような多少の野心もあったものだから、まあともかく脚本を書いて見ろという処まで進むと、沢田は大いに喜んで座付の行友李風《ゆきともりふう》という作者に書かせてその原稿を我輩のもとへ送り届けてよこした、どうも行友君などという人は旧来の作者で我々の思うところを現わし得る人でないという予感もあったけれども、とにかくそれを読むと全然ものになっていないのである、そこで余輩はそのことを云って返してしまった、そうすると、更にまた書き直して送って来た、それもいけない、都合何でも四五回書き改めさせたと思う、最後に至って実によく出来た、固《もと》より行友君という人がそういう人だから内容精神に触れるというわけには行かないが、それにしても練れば練るだけのことはある、最初の原稿とは雲泥《うんでい》の相違ある巧妙な構図が出来上って来た、そこで余輩もこれを賞めて、なおその原稿に詳細な加筆削除を試みたり、附箋をしたりしてこれならばといって帰してやった、(この我輩書き入れの原稿を木村毅君が今所持しているとのことだが、それはたしかに第二回目の時のものだろう、最初のは震災や何かがあり、沢田の身の上にも転変甚だしかったから十中の十までは消滅しているに相違ない)斯うして訂正の脚本原稿と相当に激励の手紙を添えてやると、それを受取ったのが沢田が何でも道後あたりへ乗り込んでいた時ではなかったかと思う、その原稿と手紙を受取って見て沢田と行友とは嬉し泣きに手をとり合って泣いたというようなことがたしか当時の沢田の手紙に書いてあったと思う、その辺までは至極よろしかったが、それからそろそろことがよろしくなくなって来た、もともと我輩の希望には自分の作物の発表慾とか沢田を世間に出すとか何とかいうことよりも、東京劇壇へ一つ爆弾を投じて見たいことにあったのだ、だからその興行は当然東京を初舞台とし、ここから出立しなければならないことに決心していたのだ。
 併し彼が関西に根拠を置く実際上の必要から内演試演は彼の地でやり本舞台はこっちで開かねばならぬ、気に入らなければ即座に中止改演ということを堅く約束した、それが為には何処まででも我輩は試演の
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