るべきものではない、と考えたが、その後も都新聞に小説は彼れ是れと執筆していたが劇の方には触れなかった、そのうちに東京劇壇は松竹が全部資本的に占領してしまった、「高野の義人」の時代に於てはまだ歌舞伎座の本城が田村成義の手で経営され、その後継者として新進歌舞伎菊五郎、吉右衛門等を中心とした当時の市村座が歌舞伎後継として控えている、それから少し後に、帝劇及び有楽座が出現する、例の新派の牙城本郷座も松竹に貸してはいたが、坂田庄太という人がまだ持主であったのだ、そういう中へ松竹が切り込んで来て着々と征服して行ったので、愈々《いよいよ》歌舞伎座を乗取る時などは悲愴な葛藤の起ったりしたのなども我輩は遠くで眺めていた、そうしてさしもの田村将軍なるものも既に老衰の境に入っている、東京の歌舞伎俳優は伝統の間に生き、門閥を誇ることの外には何もなし得ない、そこで歌舞伎へ行って見ても市村へ行って見ても吾々《われわれ》は更に何等の新しい迫力を感ずることが出来なかった、新派は前にも云う通り、その位だから活気ある舞台や興行振りは東京の劇壇では全く見ることが出来なかった、東京の劇壇は沈衰、瀕死《ひんし》の状態にいたのである、その間へ松竹が関西から新鋭の興行力をもって乗り込んで来たのである、我輩はいつも思う、あの当時松竹が東京劇壇を征服したのは松竹がえらい、と云うよりは東京劇壇が意気地が無さ過ぎたと云った方がよい、仮りにその当時我輩をして東京劇壇の総参謀にする者があったとすれば、必ずやあんなにもろく松竹には征服させなかった、これは広言でも何でもない、離れて見ているとよく分るものである、当時|若《も》し歌舞伎或いは新派側に我輩を信頼し得るだけの人物がいたならば松竹を決して今日の大を為し得させなかったと信ずる理由がある、然し実際問題としては、そんなら当時我輩を信頼するだけの人物が東京劇壇にあったとして拙者がそれに応じたかどうかという事であるが、それは全く出来ない相談であった、余輩はどんなに頼まれても決して劇界への出馬などは思いも寄らぬことであった、そこで結局、松竹の覇業は新陳代謝の自然の勢というべきものであった、併し冷眼にその雲行を眺めつつ、松竹を圧《おさ》え東京劇壇を振わすだけの方策は我輩の眼と頭にははっきりと分りながらそのワまに見過していた。そうしているうちに松竹は歌舞伎の本城を陥れた。
そういう変態な不精な立場で小説に隠れるというわけでもないが、大菩薩峠の筆を進めているうちに、都新聞の読者の中にも相当具眼者もあれば有識者もあって隠然の間に大いなる人気を占めていたのである、そうして好事家《こうずか》の間にはこれを是非劇化したい、俳優は誰れがいい、吉右衛門でなければいけぬとか、菊五郎がいいとかいうような噂が絶えず聞かれていた、併し、小生はそういうことに頓着せずして彼是十年も経たろう、時日の事はまたよく調べて追加しようが、兎に角劇界の事は離れているからよく分り過ぎる程分るのである。
さて、その時分になって都新聞に我輩が紹介で入れた寺沢という男を通じて大阪の沢田正二郎が是非あれをやらして貰いたいとのことだ、沢田正二郎という名は当時坪内博士主宰の劇団や何かでチラホラ聞いていたが、その人も芸風もまだ見たことはない、根津にいる時分よく小石川の植物園へ遊びに行ったものだが、その途中本郷のとある家の路地で、沢田正二郎渡瀬淳子と連名の名札のあるのを見た位のものだ、それが近頃では大阪へ行って新国劇という一団を作りなかなか人気を博しているということであった、そうして是非とも大菩薩峠の机竜之助をやらして貰いたいと寺沢君を通じての申込だ、寺沢も予《かね》てこっちの態度を知っているから「申込んでもそりゃ駄目だ」と断ったが、断られても駄目でも何でもいいから話だけはしてくれろ、斯ういうことで寺沢君から伝達されて来た、その時に余輩はどうしたものか、今までと違ってちょっとそれに耳を傾けたのである。
一体、沢田君はどういう芸風の人か、今まで何をやったのが出色か、というと松井須磨子のサロメにヨカナンを演《や》ったことがあるというような話だ、それは面白そうだ、ヨカナンをやりこなし得るものが机竜之助を演ったらおもしろいに相違ない、兎に角一度会って見よう、ということになって、寺沢の紹介でたしか日比谷の松本楼で初会見をし、食事を共にした後に帝劇を三人で見物した、それが最初の縁であった。
だが、その時は劇上演のことには話は進行しなかったのである、とにかく、尚また沢田君の持つ芸の本質を眼のあたり見せて貰わなければならぬ、自分が見に行きたいがその暇がない、また同君も東京へ来て演る機会は少ない、丁度名古屋まで来て、そこで中村吉蔵君の井伊大老を演るという機会があったから、そこで寺沢君に我輩の代理として沢田君の芸
前へ
次へ
全22ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング